歴史と現実:「洞朗対峙」の背後に見えるインドの陰謀と手法

歴史と現実:「洞朗対峙」の背後に見えるインドの陰謀と手法。

タグ:洞朗対峙 インド 

発信時間:2017-08-22 10:15:00 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

 

   第二に、インドは、国際的に法的效力を持つ1890年の「中英会議蔵印条約」を故意に歪曲している。対立事件の発生以来、インド側は、1890年の「中英会議蔵印条約」を故意に無視するかまたは歪曲して解釈し、この条約は曖昧だとして、「ギプモチ山」が3カ国の境界点であると条約に規定されている事実を否定し、3カ国の境界点を巴塘拉一帯まで北上させて論じている。米国の一部の学者もこれに同調している。実際には、清朝の駐蔵官僚と英国側は、条約の締結に先立ってシッキム付近の山脈と水系を綿密に調べており、3カ国の境界点のつけ間違いが起こることはあり得ない。3カ国の境界点がギプモチ山であったことは、中国の史料も外国の資料も有力に裏付けている。1894年にインド・カルカッタで出版された『シッキム年鑑』は、英領インドのベンガル政府によって編集されたものだが、その44ページには、「ギモチェン山、またの名をギプモチ山は、チベット、シッキム、ブータンの3地の境界点である」との記述がある。

    最も重要なのは、インド外交部が編集した『アイチソン条約集』(1929年)でこの条約がはっきりと収録されていることだ。これは、この条約の双方にとっての有效性をインド側が認めたことを意味する。インドメディアは、ギプモチ山が3カ国の境界点であることを否定し、「巴塘拉」(Batang La)が「伝統的」な3カ国の境界点であるとの主張を続けているが、歴史を歪曲する行為とも言える。



1  2  3  4  5  


TwitterFacebookを加えれば、チャイナネットと交流することができます。
中国網アプリをダウンロード

日本人フルタイムスタッフ募集    中国人編集者募集
「中国網日本語版(チャイナネット)」の記事の無断転用を禁じます。問い合わせはzy@china.org.cnまで