青岩には悠久な歴史があり、明の洪武11年(1378年)に青岩堡が設置されてからすでに600年余の歳月が流れている。明の初期、中央王朝は南西部の辺境地域を支配するため、洪武6年(1373年)に貴州衛指揮使守を設置し、四川、雲南、湖南、広西の驛道(旧時、宮廷の詔書を伝える使者のための道路)の管理にあたらせた。青岩は広西チワン族自治区から貴陽に入る駅道の真中にあり、駅道には詔書を伝える「鋪」と軍事情報を伝える「塘」が設けられていた。軍隊は双獅峰の麓に「屯」を置き、歴史上「青岩屯」とよばれていた。洪武14年(1381年)に明の太祖皇帝の朱元璋が軍隊を派遣して雲南、貴州を遠征させ、「屯」はだんだんと「村」になるようになり、「青岩屯」は「青岩堡」になった。数百年を経て、何度も拡充、修理が施されて、土で築いた城壁から石で築いた城壁、石で敷かれた町の道路に変わってきた。今の青岩城は明・清様式の古い文化の町となっている。
青岩には名所旧跡が百余カ所もあり、そのうちの23カ所はすでに「中国文物地図集‐‐貴州省」に収録されている。昔から聳え立っている獅子山の麓にある古い町では著名な古跡がいたるところで見られ、九つの寺、八つの廟、五つの閣、三つの洞穴、二つの祠、一つの宮、一つの院など計37カ所の明・清の古い建築物が町のところどころにある。その中の八つの石碑坊のうち三つの坊が残っている。これらの古い建築物はデザインが精緻で、慈雲寺の石彫、寿仏寺の木彫りなどの芸術品は貴陽市のまれな逸品となっている。
青岩鎮は明・清時代の配置の仕方を踏襲し、今でも完全な形で保存されている大手門、二の門および古い石づくりの勘定台と木造の勘定台には古めかしさが漂っている。
修復された定広門の城壁の上に立つと、古い城壁の跡が見え、往時の軍事要塞として姿を思い浮かべることができる。「趙理倫百歳坊」に刻まれているユニークな造型に対して、画家の劉海粟は「確かにまれに見るものである」と感無量のようであった。山から降りてくる獅子の図、およびその他二つの石碑坊に含まれている文化的内容に対面して、古い町の文化の一部の縮図を味わうことができる。貴州省の歴史上最初の状元(官吏登用試験に合格したもの)であった趙以炯の屋敷、孫中山(孫文のこと)元帥府秘書官平剛の旧居、内外を揺るがした「青岩教案」の跡および周恩来、鄧穎超、李克農ら古い世代のプロレタリア革命家の親族の旧居に足を踏み入れると、この小さな町にどうしてこれほど豊かな人文景観があるのかと思わず息をつくことになる。
青岩にはよく知られた特産物がある。バラあめは実においしく、平正の寛家の人たちが1874年に創設した百年の老舗でつくられたものである。青岩の双花酢にも百年の歴史があり、今でも衰えることなく、濃くて、醤油のような色で、酸味がほどよく、貴陽の人びとから好まれている。
「チャイナネット」2002年7月1日