峨眉山付近の新しい観光スポット(4)

  |  2002-05-22

峨眉山付近の新しい観光スポット(4)。

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発信時間:2002-05-22 09:51:19 | チャイナネット | 編集者にメールを送る
大峨石刻

 大峨石刻は神水閣にあり、峨眉山にある石刻の景観である。これは峨眉山の石刻芸術を代表するものである。

 神水閣は「聖水閣」とも呼ばれ、明代の呉用先巡撫(臨時に地方に派遣されて、民政や軍政を巡視・監督する大臣)の山中の邸宅と言われている。万暦末年になると、尼寺に改築され、清代の初め頃また寺に変わった。寺の前を流れる河によって名付けられた。

 神水閣の前の岩の下には清い泉がわき出ており、古くから「玉液泉」と呼ばれている。泉の水は口ざわりがよく清らかで、一年中涸れることがないので、昔の人たちに「神水池」や「聖水池」と呼ばれてきた。閣の前にはもともと「峨眉山第一泉」という石碑があった。両側は石の欄干で囲まれており、この泉は神水閣景観区にある「神の目」のように見える。80年代の初め頃、専門家の検定より、この泉の水は良質の鉱泉であることが分かった。

 ここを訪れた歴代の名士が数多くの紀行文を残している。明の末期胡世安は『登峨山道里記』の中で次のようにしたためている。「下の泉を見ると、ざわざわと流れる水の音が上から下へと向い、前の大きいな石の下から伝わってくるようだ。池の中の砂も水もきらきらと光り、長年水が涸れることがなく、どこに向って流れていくのか分からない」。清の康煕の頃に、四川の江臬は『遊峨眉山記』の中でその感想を次のようにしたためている。「橋に臨むように池があり、清くて澄んでいる。大石が池の中に挿し込まれるようになっており……小さな穴があり、ひしゃく一杯の水を池に注ぐと、その水は細々と、石の下から流れ出てきて、その音は金属音のようによく響き、まるで琴のように聞こえる。池のほとりのあずまやのところに坐って、水をすくって飲むと、そのつめたさは体のすみずみにしみ込むようで、このようのちりあくたがすべて洗い去られるような気がする」。素朴で古風な大峨石碑林はこの神水池を中心に成り立っている。

 神水池は「大峨石」という石によりかかるようになっている。唐代の太常博士仲子陵はこの石のそばで勉強に励んだことがある。仲氏は峨眉県の出身で、『幽蘭賦』などの著作が後世に残されている。石壁の上には上から下へ、「福寿」「大峨」「神水」という六つの字が刻まれている。字体がそれぞれ異なり、一つの字の直径は約1メートルもある。「福寿」は草書で書かれており、筆跡が曲がりくねっていて、尽きることのない味わいがある。「福」という字は白鶴が芝生を踏み、「寿」という字は青竜が玉柱をよじ登るような形をしており、自ら「峨眉真人」と号した宋代の陳摶によって書かれたと言われている。真中に書かれた「大峨」は行書で、唐代の呂純陽の書であると言われる。呂純陽はその名は呂岩、道教においては「呂祠」と尊称され、『八仙過海』という神話物語の中の呂洞賓はこの人物を原型として書かれたものである。大峨石もその字によってその名を得たといわれている。「神水」は楷書で、明代の張景賢の書である。筆法も精緻で構造もきちんと整っている。ここの1カ所の石刻だけで唐・宋・明の三つの時代の作者の3種類の字体を集められており、この観光地の肝要な所でもあるので、自然景観にさらに趣きを添えている。

 近くの岩には、清の康煕3年(1664年)5月に夾江県知事王世魁が書いた「水嘯山空」「漱流枕石」「浴衷」などの字が刻まれ、「水」という字によって観光地のテーマが明示されている。また蘇東坡の筆跡ともいわれている「雲外流春」という4つの文字は、筆の勢いがあかぬけして自らの風格をなしている。

 神水池から約20メートル下へ行くと、道端の岩がコケに覆われ、その上に刻まれた文字は長い年月も経ても依然とかすかながら読み取れる。明の正徳の頃の「嘉定の七賢」の7人が庚辰年(1520年)旧暦6月6日に書いた詩文が数多く刻まれている。また、王勅、崔棟、安磐がそれぞれ「玉液泉」「風谷」「雲根」という字を残している。

明・清の時代には、神水閣の前に明代の四川督学郭子章の書いた「霊陵太妙之天」という字があって、筆跡が雄渾で顔真卿の字に似ているといわれた。それぞれの字は高さ1メートル半もあり、一つの石碑に1字しか刻まれておらず、山道の右側に立っている。

抗日戦争の頃、馮玉祥将軍が病気のため峨眉山で休養していた際、「還我河山(わが山川を返せ)」という四つの字を残した。僧普智がその石刻を閣の前に立てたが、残念なことに、その石刻は今ではもう残っていない。

石碑の中に「神水楚」と刻まれたものがあり、明の天啓6年(1626年)に張廷試が書いたもので、非常に目立つ存在である。閣から数歩離れた所に鳳嘴石がある。宋の王象之が『輿地記勝 楚狂接輿』という文章の中で宋の嘉定知事費士の『歌鳳台記』の中の物語を引用したことがある。楚の風流の人接輿が楚を避けて蜀国に入り、峨眉に隠居した。宋の元符3年(1100年)、黄庭堅が中峰寺を観光した際、この石を接輿がわらぶき家を建てた所ではないかと思って、「歌鳳台」という名に変えた。明の嘉靖45年(1566年)、周光稿が石の上に「歌鳳台」という字を刻んだ。石の上にはまた「為聖西来」という4つの文字があり、明の万暦の頃(1598年)に張慶書によって刻まれたと伝えられている。閣の後ろにある巨石の上に、明の嘉靖の頃に雲南の高光によって書かれた「中和」という2字がある。

神水閣は黄帽山に寄りかかるようになっており、後には宝掌峰がある。青い山々が重なるようになっており、緑の森と青い空の相乗効果で、大変美しく見える。雲は帯のように山の中腹や森に絡みついているようである。

大峨石刻は彫刻や書、詩、額、寺の建築物、言い伝え、自然の景観など芸術の美と自然の美が溶け合うようになって、全体として調和のとれた美しさをかもし出している。

「チャイナネット」2002年5月22日

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