山東省沂蒙の崔維志さんは地方史を研究する中で、偶然にも中国を侵略した日本軍が山東省西部で実施した細菌戦の証拠を見つけた。崔さんは10年余り粘り強く入念な調査をした結果、中国を侵略した日本軍は1943年、山東省西部で細菌戦を実施して中国の一般市民42万7500人を殺したという60年近く埋もれていた歴史を白日の下にさらした。
崔さんは1954年生まれ。山東省臨沂市党史委員会の主任を務めている。余暇の時間を利用して中国地方革命戦争史を研究している。
1993年6月のある日、崔さんは南京の中国第二歴史資料館で、南京国民政府の資料の中からこんな記録を目にした。「中華民国32年(1943年)、山東省衛河流域で大規模なコレラが発生し、多くの人が死亡した」
崔さんはその中にある秘密が隠されていることを敏感に感じ取った。それは日本軍が1941年に湖南省常徳で、42年に浙江省義烏でそれぞれ細菌戦を実施したことである。43年に衛河流域で発生したこのコレラは、日本軍の実施した別の細菌戦ではないのか。
その後3年間、崔さんは相前後して済南、聊城などの資料館で調べたが、山東省西部で細菌戦が行われた手がかりは見つからなかった。その後、北京、南京、上海などの地を訪れ、かつて山東省で戦ったことのある元兵士を訪ねた。あらゆる年配の指導者は山東省西部で細菌戦があったことは知らなかった。北京の中央資料館で半月余り調べた結果、崔さんは重大な発見を得た。撫順日本捕虜収容所からこの書類館へ送られた1953年から55年までにかけた日本軍捕虜の供述資料の中で、山東省西部での細菌戦の口述、筆記供述、告発資料があった。それはこの細菌戦の計画、準備、実施状況、実施後に日本軍が秘密に調べた中国の一般市民の犠牲者数などがすべて含まれていた。それから崔さんは関連史料をさらに調べた。日本軍捕虜の供述によると、山東省西部での細菌戦による一般市民の犠牲者数は24県で42万7500人に達した。
これらの資料の信憑性を検証するために、崔さんは山東省西部と河北省南部の被害地区を数十回訪れて民間調査を行い、相前後して400人ほどの事情を知る関係者から話を聞いた。被害者の訴えは、これらの史料の信憑性をより実証した。
2003年7月、崔さんの著書「魯西細菌戦大掲密」(「山東省西部での細菌戦をあばく」)が出版され、中国を侵略した日本軍が山東省西部で細菌戦を実施して、中国の一般市民42万7500人を殺した歴史を世間の人々に知らせた。
この本によると、山東省西部の細菌戦は日本軍が綿密に準備、画策したものだということである。日本軍捕虜の林茂美は「十八(昭和18年=1943年)秋魯西(山東省西部)作戦」実施の詳しい状況を供述している。林の供述によると、この作戦は華北方面軍の岡村寧次司令官と日本軍の細菌戦の最高権威である石井四郎が直接指揮したという。作戦を実施したのは、第12軍第59師団で、細川忠康師団長が具体的に配置した。
林は「第59師団防疫給水班が1943年8月から9月までの間、山東省館陶、南館陶、臨清などの地でコレラ菌をまいた。当時、衛河に散布して、堤防を決壊させて水を各地にあふれさせることで急速に広がった。……細菌は私が第44大隊軍医の柿添忍中尉に渡し、さらに人を派遣して散布した」と供述している。
細菌戦が実施された後の状況も史料に記録されている。「中共冀魯豫辺区党史資料選編」の記録によると、「山東省西北……広い範囲にわたって地域が荒廃した。冠県、堂邑の道路の両側や馬頬河の両岸約1500キロメートルで、シン県、冠県、聊城、堂邑の4県10数区1000以上の村で約40万人が死亡し、『無人地帯』になった」
日本軍捕虜の供述によると、陸地での散布と衛河の堤防を決壊したことで、1943年8月下旬から10月下旬まで、山東省西部と河北省南部の24県では中国の何の罪もない一般市民42万7500人以上がコレラで殺された。これは一部の被害地区だけの数字だ。
山東省西部で実際に細菌戦を実施した日本軍第59師団は1945年8月15日、朝鮮でソ連赤軍に降伏した。山東省西部で細菌戦を実施した関東軍731部隊軍医部の川島清部長はソ連ハバロフスクでの裁判で、この犯罪を自供した。1953年から55年まで、中国で拘束された山東省西部の細菌戦に参画した日本軍上層部と具体的実行者も次々と犯罪を自供した。
写真上:「魯西細菌戦大掲密」に収録されている浦江県の炭疽菌被害者、柳木水さんの写真
写真中:崔維志さん、唐秀娥さん夫妻が主編を務めた「魯西細菌戦大掲密」
写真下:崔維志さんが主編を務める雑誌「細菌戦の訴訟と調査」。現在第6冊が出版されている。大量の調査資料で中国を侵略した日本軍が山東省西部で行った細菌戦の史実を暴いた。
「人民網日本語版」2005年6月14日