毛沢東主席がこの村の名前を尋ねると、「名前はありません。ただ村の入り口に攀枝花(キワタノキ)が一本あるだけです」という答えが返ってきた。そこで毛主席は、「それなら攀枝花という名にすればよい」と言った。
こうして中国の地図に、攀枝花という都市の名前が初めて記入された。花の名前を持った都市は、中国でもここ以外にない。
攀枝花市は、金沙江と雅りゅう(龍の下に石)江が合流する地溝帯にある。地下に多種類の鉱物資源が埋蔵されているだけでなく、地上に豊富な電力資源が潜在している。雅りゅう江が1,368キロメートルにわたって四川省内を流れ、3,180㍍もの天然の落差によって、3,340万キロワットの水力発電が可能と計算されている。そこで人々はこの土地を「天下に冠たる無限の宝庫」「世界水力資源の大宝庫」と呼んだ。
やがて「無限の宝庫」は、開発によって、冶金産業を中心とする中国でも指折りの重工業基地に姿を変えた。現在、攀枝花鉄鋼(グループ)公司から輸出されるバナジウムの高度加工製品は年間四千トン、国際市場の15%に達し、この公司は世界三大バナジウム企業の一つに数えられている。またバナジウムおよびチタニウム製品と鉄道用鋼鉄では、中国最大の生産基地となっている。
水力発電も、90年代に建設が進み、攀枝花市内の雅りゅう江に1999年完成した二灘発電所は、最大出力330万キロワットという、20世紀中国で建設された最大の水力発電所となった。
攀枝花は、若々しい移民都市だ。60年代、最初にやってきた遼寧省、内蒙古自治区、山東省、天津市、上海市、北京市などの人々が、多様な文化色を形成した。方言、生活や飲食の習慣などがみな違っていた。若い人がほとんどで、老人が少なかった。他の土地には存在する顔の相似性も、ここでは見られなかった。
60年代から70年代は「生産第一、生活第二」の原則が貫かれ、改革開放が始まってようやく都市のインフラが積極的に整備されるようになった。
今では広い道路ができ、フラワーガーデンが街角を彩り、おしゃれなヘアサロンが繁盛し、人々はイヌを連れて広場を散歩している。最も愛用されている乗り物はタクシーであり、電話や携帯電話も一般家庭に普及している。
攀枝花、いま35歳。15年後の50歳になったときには中等程度の発達国並みの豊かな都市になっているようにと、現代化に向かって着々と歩んでいる。
「人民中国」2000年11月号より