西安と名付けられたのは明代のはじめからである。現在はせん西省617万の省都,市内人口は280万人、中国西北地区で最大の都市である。市内の中心となっていて最も賑やかな鐘楼から東西南北の城門まで四つの大通りがそれぞれ真っ直ぐに伸びている。この通りを阿倍仲麻呂、吉備真備、最澄、空海、円仁等、奈良平安時代の数え切れないほどの日本人たちが文化仏法の道を求めて歩いたのである。実際、彼らが日本へ持ち帰った物は有形無形に今に至って説明の余地なく多く大きい。この自然歴史博物館とも言われる、西安を訪れてみたいと願う日本人が多いのもむべなるかなである。汽車で北京を夕方の5時10分に出発して、車中泊。朝起きれば。そこはもう城壁が目に飛び込む西安の城壁だっだ。朝食を近くの店でとった。西安の物価が安い。タクシ-を交渉して一日150元のチャ-タ-料金にして、北京に比べたら半額近い。
西安と言えば、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスが有名だ。「長恨歌」は楊貴妃が長安郊外の馬嵬坡(ばかいは)で無惨の死を遂げたから50年もたってから、白楽天が35歳の時に創った叙事詩だが、楊貴妃たちや歴代の帝王が享楽に耽った地、西暦747年に玄宗皇帝が造営した華清宮へまずいった。骊山の麓にある華清池は、3000年前の西周の時代からの温泉の湯元もあって、玄宗皇帝が楊貴妃と自分のため専用の浴室を作ったわけだがそれらの遺跡の規模はとても大きくて、大理石を用いている。白い玉石で、魚や竜、雁、蓮の花などの形を彫刻して18の浴室を飾った。温泉の湯の中で、これらがまるで芙蓉の花が水面に咲いているようだったそうだ。皇帝は600キロも離れた蜀州から楊貴妃の大好きなレイシを三日間かけて馬を走らせ、湯上りの妖艶な彼女の歌や舞いを鑑賞してまさに歓楽に日々を送ったんだ。浴槽の遺跡の上に古典的な建物が造営されているので、唐の時代の風格がしのばれます。今も観光客が入れる温泉もあるが、わたしたちは5角、日本円の7円くらいで、43度吹き出すお湯の噴水に手や顔を浸して、ちょっとだけ楊貴妃気分になった。1936年の12月にこの華清宮の一室に泊まっていた蒋介石が突然の銃声に目を覚まして、着替えもできずに窓を乗り換えて山腹に逃走して隠れたが、張学良の護衛兵に発見されて、西安市の西京招待所に幽閉されたという、西安事件の当時の弾痕も生々しく残っていた。そんな現代や古代の政治物語を知ってか知らずか、池の鯉は優雅に泳いでいた。
2001年5月23日