敦煌は甘粛省の西部に位置し、甘粛省の北部と西部の新彊ウイグル自治区と境界を接している。大昔からここ一帯には人が住んでいた。後になって、羌戎人、月氏人と匈奴人が相次いでこの地方を占拠した。それらの民族はいずれも遊牧民族であった。その後漢の武帝が派兵し河西回廊で匈奴を打ち破って以降、漢族が中原からここに移住してきて開墾した。歴史の記録によると、敦煌の古城は漢の武帝の元鼎六年(紀元前114年)に建造されたものであり、武帝はここに敦煌郡を設置したが、これは河西に設立された四郡(武威、張掖、酒泉、敦煌)のうちの一郡で、その下に六県が置かれていた。城は鳴砂山の麓にあり、附近は西瓜の名産地だったので、古代から敦煌は一名、沙州城または瓜州城とも呼ばれた。
敦煌はシルクロードの途上にある重要な古城である。シルクロードの新彊境内にある三本のコースはいずれも敦煌を出発点としたものである。キャラバンが西へ行こうと、また東から来ようといずれもここを通過しなければならなかった。したがって、ここは中国と西方とも貿易、文化交流の重要都市であった。
ここの山河湖沼はゆたかで珍しい古代文化の遺跡を数多く保存している。敦煌の東南方に雄大な祁連山があり、西は広大ではてしないタクラマカン大砂漠がある。東には三危山が屏風のようにそびえ、北には白山がえんえんと走り、美麗で豊饒な盆地をなしている。敦煌地方の大部分は、七月から八月までの間の気温はやや高めだが、冬季は寒い。一年の降雨量は非常に少なく、温帯の乾燥気候である。
敦煌が誇りとしているのは莫高窟である。莫高窟は別名、千仏洞とも呼ばれている。敦煌城の東南20キロのところにあり、三危山と鳴砂山の間にはさまれている。洞窟は鳴砂山東麓にある断崖の上に掘さくされた上下五層の石窟である。莫高窟は中国にある現存の石窟のうち最も規模が大きく、かつ内容も一番豊富である。莫高窟の歴代の壁画はおもとして勤労人民の漁猟、耕作、建築、輸送、穀物すりひき、米つき、陶器づくりなどの情景を描いている。このほか、仏教の故事も数多く描写されている。これらの壁画は中国古代の政治、経済、軍事、文化、宗教などの研究に貴重な造型資料を提供している。また仏教の教典を保存している莫高窟第十七窟は清代の光緒26年(紀元前1900年)に発見されたものであり、なかには仏典はもちろん、文書、織物、刺しゅう、絵画などの文物が5万点余りあって、内外の学術界を驚嘆させ、注目を浴びた。それからというもの、敦煌の芸術と仏教を研究する学者も年を追って増え、社会科学の分野では「敦煌学」という専門学科さえ形成された。
芸術宝庫の莫高窟以外に、敦煌にはなお唐代の詩人李白、王維、王之渙が筆を取って吟詠した陽関、玉門関の詩があるだけでなく、極めて完璧に近い原型を保存している漢時代の長城やのろし台、数多くの漢、唐時代の墳墓があり、きた奇異美麗な鳴砂山、月牙泉、懸泉水などの名景もある。
「チャイナネット」 2001年6月28日