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▽10年前に何が起こったか?
1997年7月2日、タイ政府はドルペッグ制の放棄を宣言し、その日のうちにタイバーツの対米ドルレートが17%下落した。これが金融危機の引き金だった。タイバーツの変動を受けて、フィリピンペソ、インドネシアルピア、マレーシアリンギットが相次いで国際投機筋の「攻撃対象」になった。同年下半期には、日本の銀行や証券会社が相次いで破綻し、インドネシア金融危機や東南アジア金融危機が引き続いて起こり、翌年にはアジア金融危機へと拡大した。
1998年8月初旬、香港が中国返還1周年を迎えると、米国株式市場の混乱や日本円レートの継続的下落などに乗じて一儲けをたくらむ国際投機筋は、香港を新たな攻撃対象とした。8月13日、香港証券取引所のハンセン指数は6600ポイントを割り込み、97年7月の約1万6千ポイントからおよそ1万ポイントも下落した。香港特別行政区政府は反撃を開始し、金融管理局は外貨建てファンドを運用して株式市場や先物取引市場に参入し、国際投機筋が投げ売りした香港ドルを回収し、レートを1ドル=7.75香港ドルの水準に回復させた。こうした対応で巨大な損失を被った国際投機筋は、今度はロシアに照準を定めた。ロシアはルーブルの70%値下がりを代償として、ロシア株式市場に巨額の資金を投入する国際投機筋の勢いを削いだ。こうした動きが欧米各国の株式市場に波及し、市場の全面的な混乱をもたらした。
香港の対応を振り返ると、1998年時点では金融危機はアジア地域に限定されていた。そして、ロシア金融危機の発生は、アジアで発生した金融危機がアジア地域から飛び出して、世界に拡大したことを意味している。香港がうまく対応したため、中国はアジア金融危機の被害を免れたアジア地域で唯一の国となり、中国人の多くはこの大規模な危機についてぼんやりとした印象しかもたないことになった。だがこの危機で中国の隣国であるロシアの経済は大きな痛手を被り、98年中には苦境を脱することができなかった。
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