こうしたミクロ的な制裁と圧力のほか、マクロの視点でみると、米国はこれまでずっと日本を成熟した自由市場国と認めてこなかった。米国は米日間の貿易不均衡は日本の体制内部に原因があると考えたため、「内政干渉」に近いやり方で日本の政治経済体制の改革を促すことが多かった。89年に両国は「日米構造協議」を締結し、最終的な結果として日本は流通制度、投資障壁、輸出規制などで多くの改革を行うことになった。特に農産品分野は市場開放の原則が打ち出され、それ以降に米国産農産品が日本市場に大量に輸出されるための基礎固めがなされた。しかし実際には、日本はこれ以前にすでに経済構造や行政構造の改革を意識的かつ段階的にスタートしていたのであり、80-90年代に日米間で先鋭化した「構造協議」は、日本の内部で生まれた構造改革のプロセスを中断してしまい、90年代の日本の政治的安定と経済発展にマイナスの影響を与えた。
米国の日本に対する恐怖には、これまでに述べた構造的要因があるほか、当時には日米間の技術的格差が縮まっていったという事実も軽視できない。日本の外務省の委託を受けて、83年に米調査会社ギャラップが米国国民を対象に行った世論調査によれば、米国人の4人に1人が、「先進技術分野で日本は米国にとって『最も脅威になる』国だ」との見方を示した。同年に米商務省が発表した報告では、「5つのハイテク分野のうち、米国は航空機製造、宇宙航空技術の2分野ではトップを維持しているが、半導体技術、光ファイバー技術、スマート機械技術では日本に遅れを取っている。米国の科学技術が相対的に遅れているため、高度軍事技術では米国は日本への依存を高めざるを得ない。半導体分野の場合、70年代は米国企業が世界の半導体市場で圧倒的なシェアを獲得していたが、88年は36.5%まで下がり、その一方で日本のシェアが51%に達した」と伝えられた。