この遺跡は高紅村の南にある山の脊梁に位置している。この山は柳林を東西に貫く三川河により三方面をぐるりと取り巻かれ、北は307国道に隣り合っている。山全体の地形は、北西が高く南東が低い。南東部の傾斜率はやや緩く、北西部は険しい。上から下に至るまで、陶器の破片が発見されている。河岸から遠くないところには、戦国期(紀元前476年―前221年)・漢代(紀元前202年―紀元220年)の陶器の破片と灰坑類の遺跡があり、高所の緩い坂の部分から採集された陶器片は殷(紀元前17世紀―前11世紀)の晩期に属するものである。山の頂は割りと平坦であり、当地の人は柿棗垣と称している。垣上の地形は西側が高く東側が低い。研究によると、晋の西北・陝北高原一帯は殷の晩期に何らかの政治集団の活動範囲であった可能性があるという。高紅遺跡はこの集団の権力の中心地であったかもしれない。
また、遺跡には大型の突き固められた建築群があることによって、ここがかつて宮殿であったことがわかる。これは集団の力でないとなしえないので、ここがかつて政治集団の活動の中心地であったことを現している。この遺跡の発掘は我々が呂梁地域の変遷の研究を一歩進めるにあたり、貴重な手がかりを与えている。
中国考古学会の徐蘋芳理事長のコメント:
長年にわたって、呂梁山区ではこれに類した文化の特徴を持つ殷代後期の青銅器がしばしば発見された。これらの青銅器の出土の場所は散らばっていて、ほとんどは墓からのものであるが、それ相応の遺跡は見つからなかった。高紅の殷代遺跡の発見によって呂梁山区の殷代後期の青銅器の帰属が明らかになった。
「チャイナネット」2007年4月