林国本
さいきん、日本旅行についての話題をよく耳にするようになった。これは日本側が新しい方針を打ち出したこととも関連がある。
日本は中国の隣国としての存在であり、長い歴史をたどれば、遣隋使、遣唐使の時代までさかのぼることができる。しかし、日本問題を専門に研究している人たちを除くと、一般の人たちの日本についての知識は、うすっぺらそのものと言っても過言ではない。「フジヤマとゲイシャガール」というレベルには至らなくても、やはり、断片的であると言わざるをえない。そのため、中国の一般市民が日本へ観光に行く時代になったことは、日本をより良く知る中国人がだんだんと増えていくきっかけになると言ってもよい。
私は日本と関連のある仕事を何十年も続けてきた人間の1人で、一般の人たちの間では「日本通」といわれているが、この点について、私は冷静さを失ってはいないつもりである。世間で日本問題の学者といわれている人でさえ、ごく狭い範囲のことを半生をかけて研究しつづけて、やっと学者として認められるようになったのに、私のように一介のジャーナリストとしてニュースを追っかけまわしてきた人間が「通」になんかなれるはずはないことを本人が一番よく知っているのである。それだから、今だに勉強を続けているのであり、また、いくら頑張っても「半可通以下」にしかなれないことを自分が一番よく知っている。では、なぜ「通」という虚像ができてしまうのか、というと、やはり日本について断片的な知識しか持っていない人が多いから「半可通以下」まで「通」と見られてしまうのだろう。
日本旅行から帰ってきた人が興奮気味に語る感想を聞いていると、だいたい、温泉やおさしみの話ばかりだが、初心者はこれでいいと思う。いわゆる商業ベースのパックツァーのコンセプトのねらいもそこにあるわけだから。しかし、私の付き合っている人の中には、日本文学や日本社会について専門の勉強をしてきた人たちがいる。こういう人たちには私は二度目、三度目の日本旅行から視点、視角を変えてみてはと、アドバイスしている。
例えば、一カ月の滞在許可があるのだから、もっと深く掘り下げた日本探訪の旅をすることだ。もちろん、これは個人旅行の許可を得ることを前提条件とするものだが、悲しいかな、「不法滞在」とかいうものが時々発生するので、中国を含む一部の国の人たちの日本旅行は「屈折したもの」となりかねない。
私も現役を引退してから、個人で一度日本に行ってみようかと思ったことがあるが、口コミで5万元ない10万元の保証金を積まなければならない、と聞いて、10万元がないわけではないが、そんな「不法滞在被疑者」みたいな旅行はご免こうむりたい、と思い、それ以後、ヨーロッパに行っても、日本には個人で行かないことにしている。
私の知人に、日本のアニメに非常に興味を持っている人がいるが、私は東京訪問の際にはスタジオ・ジブリにでも行ってみてはとアドバイスしている。たとえ、レストランでの昼食を含めて5000円を費やしても、その収穫は決して5000円どころではないはずである。このアドバイスは適切かどうかは別として、この見学をきっかけにして、日本のアニメについての連載物でも書けば、この分野のそこそこの「通」になれるはずだ。知識の吸収は決してムダではない。さらに才能を伸ばして、「日本アニメ史」研究にまで手を広げれば、中国でオンリーワンになる可能性さえ含まれている。「捨て金」、「捨て石」を恐れてはならない。たえず自分の成長を目指すことである。
ちなみに、私は仕事で日本に長期滞在していた頃、知人と「箱根の森美術館」に5度も行ったことがあるが、私は画家でもないのに、なぜ、あれほど凝ったのか。ヘンリー・ムアーの彫刻にひかれ、「感動したからだ。その感動がその後、私のジャーナリズムの世界での新たな分野の開拓のモチベーションになったのだ。私にとっては大きな魚をつかみ取ったことになる。私はその後、彫刻についての本をかなり読んだ。同じ「表現の世界」に生きるものとして、私はなにかを感じ取っていたのだ。
したがって、日本旅行も単におさしみ、かつおのたたきの味覚を知る旅とはせずに、なにかをつかみ取る旅にしてもらいたいのである。こういうアドバイスはいかがなものだろうか。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2010年7月19日