黒い記憶
ウクライナの首都キエフにあるチェルノブイリ博物館には今でも原発事故で勇敢に消火にあたった消防隊員の肖像画が掛けられている。バーゴンさんはその中の1人だ。
▽忘れられた60万人の「英雄」
最初に現場に到着した消防隊員のバーゴンさんと仲間は防護服も身につけないまま、作業にあたった。注水の途中、バーゴンさんは大きな鉄の棒が車輪に挟まっているのに気づいた。「このまま車を次の当番に回すわけにはいかない」と思い、手袋をつけずに鉄の棒を取り除いた。
約20分後、バーゴンさんは突然気分が悪くなり、続いて30秒に1回のペースで嘔吐やめまいを感じ、まともに立っていられなくなったという。病院に運ばれたバーゴンさんは「被爆者」となった。この25年間、彼は半年に1回身体検査を受けなければならず、たびたび激しい頭痛やめまい、痙攣などに襲われることになった。
当時、バーゴンさんと同じように防護もせずに作業にあたった「英雄」は60万人を超え、一生涯放射性に悩まされることになったが、今では忘れられている。バーゴンさんは現在モスクワに住み、毎月3500ルーブルの退職金で生活している。治療に必要な高い薬のほか、野菜や果物を自分で買わなければならず、これっぽっちの生活費ではまったく足りないのが現状だ。
▽原発事故を見物していた住民
爆発後、原発事故のレベルは最小のもので、彼らの居住環境は安全だとプリピャーチ市の住民に伝えられた。その爆発によって放出される放射線量が広島に投下された原子爆弾500発分に相当するなどとは彼らは知る由もなかった。
爆発当初、まだ多くの市民が街の鉄道橋に集まって事故を見物していた。目撃者はその後、「まるで虹のような、きれいな火炎を見た」と語った。その中にいたニコラさんは当時の記憶を振り返り、原子炉から火が上がり、多くの人が「原子炉から変なにおいがする」と叫んでいたという。「確かにあれは異様に変なにおいだった」とニコラさん。爆発後、目撃者の多くが強い放射線を浴びたため死に至った。
地元住民が原発事故のことを知ったのは海外メディアを通じてだった。プリピャーチ市の住民がチェルノブイリ周辺の汚染地域から退避するまでに丸々3日かかった。住民には何も物を持っていってはならないと伝えられた。
事故に関する詳しい状況がロシアの大手紙「プラウダ」で報じられたのは5月6日になってのことだった。しかしこの報道では、爆発で放出した放射線による死傷者数は伝えられなかった。5月14日、旧ソ連のゴルバチョフ元大統領がチェルノブイリ原発事故について初めて公式の場で語った。彼は国民に事態の深刻さを伝え、「原発はすでに人類の制御可能な範囲を脱している」と述べた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年4月26日