例えば、巨大なコンピューターネットワーク(インターネットのような)ものがありまして、そのすべてのシステムが、日本語で組まれているとしたら、その「真ん中」に位置するコンピューターだけ(ネットワーク全体の起源であったかもしれない)を「英語化」したところで、「ネットワーク全体を英語化」させるよりも「英語化してしまった真ん中のコンピューターの周囲一部に英語から日本語に変換させるシステムを構築」したほうが、ネットワーク全体の「変化コスト」が低く済んでしまうことになってしまいます。
これを、英語化を採用した企業にあてはめれば、当該役員会や一部の公式会議で英語化されるものの、その周囲(たとえば、非公式の打ち合わせ)では、英語化から(再度)日本語化へというコストが発生するだけとなるでしょう(これが、社内で広がる各所の温度差につながります。)。株主や取引相手企業にもすべて「英語が堪能になってもらう」コストは莫大で、誰も負担できない訳です。
1万人規模の企業の、オーナー社長がどれだけ強く主張しても、また、そうした企業が100社英語化を導入したとしても、1億2千万人によって構築されたネットワークシステムに乗っかっている日本企業にとっては、実施コストが高く実行可能性が「低い」と言わざるを得ません。
以上のような「企業は社会契約の束である」ということと、「企業内コストだけを捉えてもコストベネフィットが非効率である」という2つの理由から、僕は、「現時点」での日本企業の英語化については、社会ソフトインフラが整っていない、平たく言えば、社会が受け入れる準備が出来ていない、という状況から、まだまだ実行可能性が低いものであると考えています。
それではもう少し前向きに考えまして、いつの段階で実行可能性が高くなるのかということですが、これは、ひとつの企業内だけではなく、社会全体のネットワークシステム全体が、多国籍多様化(Diversification)した時であります。具体的には、日本国内に外資企業が多く入ってきて、そうした外資企業に勤務する日本人が増えた時、または日本資本の日本国内企業に外国人勤務者が増えた時、さらにまたは、資本の国籍を問わず海外展開の現地法人に勤務する日本人が増えた時に、日本という社会全体のネットワークシステムに「多言語」という新しい機能が備わることになると思います。