(前回からの続き)
企業が社会と繋がっていることを構造的に把握する方法がいくつかあります。そのひとつで企業を契約の束(Nexus of contracts)と捉える見方がありまして、社内や社外といった社会全体において、見える契約だけではなく、見えざる社会との「合意事項」もここにおける「契約」という意味であります。例えば、株主が株式を保有することは企業と株主の所有権に関する契約でありますし、株主がその権利をもって役員を任命することは実効支配と経営委託に関する契約でありますし、従業員を企業が雇用することは労役に関する契約でありますし、企業が原材料を購入する契約、支払いをする契約等々、すべてが契約によって、企業という存在が社会の中に「出来上がる」ことになります。その契約の数は証券取引所に上場しているような、ある程度の規模の企業であれば、まさに膨大な「契約・合意事項」の塊と言えるでしょう。
そうした前提を置いて英語化ということについて考察すれば、もはや企業体の言語を変化させるイニシアチブ(率先して変える権利)は、「誰も保有していない」ということもできます。企業は社会の中の契約の束の存在でありますから、企業の経済的・法律的な所有権者だけに、その一企業そのものと、その企業からつながった別の個人または組織全体の「全ネットワークアイデンティティーに関する変更権」を社会からすべて委託されているわけではないと言えますね。さらに、アイデンティティーを大きく規定する言語というのは、「その契約の束」に参画しているすべての人や組織にとっての共通解釈手段でありますから、中心点たる一企業の独断的な英語化は、いわば「唯我独尊」的な行為と言えるでしょう。
つまり、大きな規模の企業で強力な所有権力を持ったオーナー企業のオーナーCEOであろうとも、その組織体の言語を変化させることは不可能に近いことでありますし、勝手に実施してはならない行動と言えると思います。
上述のように一企業が英語化を、ネットワークアイデンティティー≒社会ソフトインフラに対して過度に先行して実施「するべきではない」という絶対否定論拠だけではなく、さらに、当該一企業にとってより多くのコスト負担になるという経済合理性論拠も挙げることができると思います。