しかし、そうした多様なメリットの一方で、足かせがあったことも事実でした。それは、「風評」や時には「社会的責任」と呼ばれるものです。企業が経済的合理性のだけで動いている限り、日本企業であっても海外に生産拠点をもつことのメリットは上述の通りです、ですから海外進出は多くのメリットを得られることになるので、日本だけにとどならなければならないというのは合理的ではないわけですね。しかし、「産業の空洞化」になるべきでないという大義名分のもとで国内での生産をしたほうがよい、しなければならない・・・というような見えざる社会からの圧力がありました。これが、「企業倫理」であったり「社会的責任」であります。
もちろん、国内生産が悪いということではなくて、経済的合理性においても良い側面もあり、日本国内で重点的に生産することのメリットとしては、日本国内のほうが部品調達やその他企業との関係が長年続いており、取引コストが低い、行政との関係が近く主張が通りやすい、ロビー活動をしやすい等が挙げられると思います。
重要なことは、「日本国内生産の割合が高いということ」と「日本も海外も差異なく合理的に生産地を決定するということ」が、客観的に比較されてこなかったことであります。いわば、日本国内生産に「下駄」をはかせて議論していたところがあります。
決して、海外生産が良い、日本国内生産が悪いという短絡的な議論ではなく、双方のメリットとデメリットを合理的に計算はしているものの、結論としては、日本国内生産に「下駄」をはかせていたという状況だったです。
これは、まさに、「産業の空洞化」「雇用の確保」といった、企業倫理というものを論理根拠にされます。「日本企業なんだから、日本の雇用確保重視の経営をしてくれ」と日本社会が暗に要請していたわけです。そこで、企業はこうした「風評リスク」を考慮した上で、「下駄」をはかせて意思決定をしていました(企業にとっては、倫理観レベルもひとつの意思決定ととらえれば良く、高すぎる倫理観は粗利益を圧迫しますし、低すぎる倫理観は長期的な売上を抑えこみ、また優秀な人材があつまってこない可能性があります。ゆえに、近代ではCSRなどがオーナー社長の心意気などではなく、システマチックに求められます。)。
さて、こうしたときに、今回の地震は、誤解を恐れずに言えば、企業にとっては今後、海外生産をするための「大義名分がたった」ことになるでしょう。決して、企業が「日本のために尽くす」という倫理観がなくなったとかそういった極論ではなく、あくまでも企業は合理性との社会的責任の狭間で動いているものですから、生産をストップさせないためにも、「海外シフトを強めます」という主張が今後出てくると思います。