そして、バブル崩壊後1990年代以降、日本のすでに多国籍企業となった大企業は、本来はイミテーションとイノベーションのバランスをとるべきである処、イノベーションだけを目指さなければならなくなり、自らがつくりだした社会制度の鎖(コンプライアンス・知財権等の厳守によりイミテーションをすることができない。)に苦しめられることになります。さらに、大企業はラボラトリー的イノベーションに頼らざるを得ませんが、これには莫大な投資が必要であり一度キャッシュフローが悪くなれば、研究開発投資の減少とイノベーションの減少(すなわち魅力的な製品をうみだすことができない)という悪循環となってしまいました。一方で、日本の中小企業は、同じ制度下におかれているのでイミテーションはできなくなっていたものの、大企業とは異なったイノベーションのタイプ、ネットワーク型イノベーションを発生させる好例もできていました。いわゆる専門性ある中小企業の切磋琢磨によるイノベーションです(例:荒川区、墨田区)。しかしながら、日本の中小企業はこうした底力をもっていたにもかかわらず、主たる納品先である日本の大企業に対し交渉力の弱い中小企業は、上述のラボラトリー的イノベーションの悪循環にはまってしまった大企業の財政難のしわ寄せをうけまして、資金的には決して裕福にはならなかったといえましょう。このように、バブル崩壊後は、日本の大企業はイノベーションを起こし難くなり、中小企業はネットワーク型イノベーションを起こすことができたものの、常に資金難となる自体が散見されるようになったのです。
これらの日本だけでなく産業先進諸国の経験をマクロ的に見なおせば、イノベーションというのは、産業先進国の立場にたった理論であり、「守り」のロジックを出発点としています。一方でイミテーションは「攻め」のロジックを出発点としています。例えば、最近まで、韓国産業や中国産業はイミテーションのロジックによって経済成長をしてきました。これは経営者側、労働者側の利害対立二極的ロジックにも近似しますが、世界全体の時代の流れとして、産業先進諸国そのものが今「イノベーション以外の排他主義」に傾き過ぎたロジックを考えなおす段階にきていると思います(イノベーションのみを礼賛することによって、イノベーションそのものが起きにくくなっているという矛盾の現象が生じているわけです)。決して、イミテーションが後発国、イノベーションが先進国という時系列的な流れにあるとして捉えてはならないと考えます。
中川コージのブログ『情熱的な羅針盤』