小さな花びらから静かに繊細な香りを放つランの花は、これまでずっと中日両国の文化人たちに愛されてきた。この小さなランの花が1960年代、中日をつなぐ架け橋となったことはあまり知られていない。「ランの花外交」は、両国間の重要な貿易を成功させ、その後の両国関係正常化に向け、欠くことのできない貢献を果たしたのだ。「環球時報」が伝えた。
▽中日貿易が困難に直面 「ランの花代表団」が重要任務と共に訪日
1963年4月のある深夜、中国の対日業務責任者だった廖承志氏の自宅の電話が突然鳴り響いた。電話は日本の政治家・松村謙三氏からだった。松村氏は廖承志氏の大学時代の知り合いでもある。
電話の内容は、日本の愛蘭会会長である松村氏が、中国からできるだけ早く「ランの花代表団」を日本に招きたいというものだった。廖承志は当時、この突然の要求に疑問を感じていた。松村氏は当時、自民党三木・松村派のリーダーの1人として、政界において大きな影響力を持っていた。その松村氏が、どうしてこれほど急に中国から「ランの花代表団」を訪日させたがっているのか?
受話器を置いた廖承志氏は、周恩来総理に状況を報告した。2人は、松村氏のこの要求は、当時中日の貿易が直面していた困難と関係があるだろうと分析した。
松村氏は、日本国内で中日関係の正常化に力を注いでいた政治家だ。幼いころから漢学を学び、ランの花を好むなど、中国に対して特別な感情を持っていた。
松村氏は1959年と1962年に、代表団を率いて2度訪中しており、周恩来総理とも、段階的に両国関係を正常化させるという共通認識に達していた。氏の訪中期間中、両国は「LT貿易備忘録」に調印、東京と北京がそれぞれ常駐の貿易連絡所を設立し、互いに記者を派遣する、有名な「備忘録貿易」がスタートした。
しかし、備忘録貿易実施のプロセスにおいては、数多くの困難があった。まず、日本政府が中国に対するビニロン・プラントの輸出をなかなか許可しなかった。さらに、両国による連絡所設立も抵抗にあった。また、米国と台湾からのプレッシャーは、池田内閣をさらにおびえさせた。
形勢の転換にあせった松村氏は、中国から「ランの花代表団」という名目で代表団を招き、日本政府と貿易について話し合いを行い、膠着状況を打破することを思いついた。
このやり方は非常に巧妙だったと言える。松村氏がランの花を愛していることは周知の事実だ。ランを通じた交流、という名義で中国代表団を日本に招けば、不必要なトラブルを回避できる。松村氏の真意を知った周総理と廖承志氏はすぐに代表団を訪日させ、両国の貿易と連絡所設立問題について話し合いを行い、これをきっかけに記者の相互派遣が実現できるよう希望した。
「人民網日本語版」2010年9月7日