中国の近代史上に、「蒋百里」と言う神出鬼没の名前がある。この孤独な将軍は共産党でもなければ、国民党の直系でもないが、蒋介石の先輩にあたる人物だ。才能溢れる彼は堅実で不屈な精神の持ち主だった。彼の頭の良さはムッソリーニにも劣らないという。保定軍官学校の校長だった頃に自殺を図り、九死に一生を得た事件や、日本人の妻・左梅を娶ったことや実に不思議な人生を歩んだ人である。
日本の上の世代の間では、蒋方震将軍(百里は字、方震は名)は中国よりも有名である。「蒋百里はたった一人で日本の陸軍を2回も負かした」と彼らは言う。
その1回目は蒋百里将軍が日本で軍事学を学んでいた時のことだった。
蒋百里将軍は1901年に日本に留学し、成城学校(初級の軍事学校)を経て陸軍士官学校に進学した。1906年に卒業する時に、天皇が歩兵科の主席卒業生に賜る軍刀を授かったのは蒋百里だった。彼は後にそれを中国に持ち帰っている。
当時、第9期の歩兵科の卒業生には300人余りの日本人と4人の中国人、他に何人かのタイなどの留学生がいた。そんな中で、トップを手にしたのは中国人留学生の蒋百里だった。日本の士官たちは面子丸つぶれで耐えがたかっただろう。実は、第2位も中国人の名前が呼ばれたのだった。そのナンバー2こそが、後に雲南で軍を立ち上げ、袁世凱に対抗した色男である蔡鍔だ。中国人がトップを独占したことで、大きな波紋を呼んだ。そのため、3番目の名を呼ぶとき、学校側も再度確認をしたと言う。しかし、残念ながら、3位も張孝準という中国人だった。卒業を発表する伏見宮親王に、恐れ多くて、この事実を伝えられなかった学校関係者は、急遽、日本人の学生を第3位にした。しかし、トップ4のうち、日本人が半分にも満たないと言うこともバツが悪いと感じた彼らは、4位も日本人にすり替え、張孝準は結局5位になったのだった。
では、この急遽、名が挙がった日本人は誰だったのか。一人は荒木貞夫、後に陸軍大将となり、犬養内閣・斉藤内閣の陸相を歴任し、戦後はA級戦犯として終身刑の判決を受けている。もう一人は真崎甚三郎、後に台湾総督となった陸軍大将で、二・二六事件の黒幕であると言われている。また、この第9期の卒業生の中には、他にも小磯国昭、本庄繁、松井石根、阿部信行…など正に粒ぞろいのエリートたちが居た。そのエリートたちが蒋百里と蔡鍔に惨敗してしまったのだ。この事があってから、二の舞を演じないように、陸軍士官学校では、中国人留学生と日本人学生の授業は別々に行われるようになったと言う。