そして、蒋百里が日本を倒した2回目は、8年にも及ぶ血戦、即ち中日戦争の時である。当時、日本軍は西に向かって移動を続け、湖南に入った。そして中国が展開する悪夢のような持久戦にはまってしまい、負けるまで抜け出せず、もがき苦しんだのだ。これは蒋百里が立てた抗戦理論の筋道通りだった。戦争は表面上、中国が受けた損害も少なくないが、戦略的に勝つ事は始めから分っていたことだったのである。
彼は「国防論」と他の著書で、日本と戦うための戦略について述べている。それは以下の3つにまとめることができる。一つ目は、中国が日本に丸呑みされる恐れこそないけれど、少しずつ侵略されるのは怖い。そのため、徐々に後退していくのではなく、積極的に日本に徹底抗戦していかなければいけない。日本軍の前線を崩し、後方まで攻める勢いが必要である。二つ目に、精力的に上海を占領している日本軍を攻撃したことだ。それにより日本軍は主要な侵攻経路であった東北―華北―華中―華南路線を長江に沿ってさかのぼる東西路線に変更するしかなかった。そして、中国軍は川沿いや山道、湖や沼といった地の利を生かして日本軍の軍事面での優勢に対抗できたのだ。三つ目は、空間を時間に替える作戦だった。即ち、ある程度の拠点はあきらめ、自国の軍隊が休養したり、編成を整えたりする時間を捻出することである。それによって、長期戦に持ち込み、時間をかけて日本軍をとことん追い詰めたのだ。
実際、蒋百里将軍は1938年という早い時期に亡くなっているが、中日戦争はまさしく彼の予想通りに展開したのである。これは彼が両国の実力と戦略を正確に把握していたことを示す。
蒋百里将軍の妻は、左梅という日本人である。この女性もまた、夫と同じく異彩を放つ人物だった。彼女は22歳の時、日本との関係を全て断ち切って蒋百里所軍の元に嫁いだ。抗日戦争の際には、中国人女性に混じって中国負傷兵の手当てに明け暮れた。将軍が亡くなった後は、彼女が毒殺したのではないかなどという誤解や疑いの中で、5人の子どもを中国の伝統に沿った教育方針のもと、懸命に育て上げたのだった。彼女は子どもに日本語をひとつも教えなかった。そんな彼女の涙ぐましい努力は中国やがて、中国人に敬意の念を抱かせるようになった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年1月20日