層が薄くなってしまった
日本の各界の中国専門家
「高崎達之助(1885~1964年)、岡崎嘉平太(1897~1989年)、斎藤英四郎(1911~2002年)、橋本龍太郎(1937~2006年)などの日本人は、中国ではたいへん有名だった。現在そのような方はまったくいないわけではないが、お名前を挙げると、その方たちにとっては迷惑だろう」
日本へ取材に出かける前に、だれに聞けば、中国の事情を理解したうえで日本について説明してもらえるか、と中国社会科学院のある研究者に質問すると、彼はこう答えた。
「橋本さん以降は、もういないのかとも思われます」
数年前に、ある政治家が日本の中国友好団体のトップに就任した際、北京支局特派員を長く務めた日本人記者にもらったコメントが思い出された。「彼(橋本氏)は晩節を汚した」と、その元特派員ははっきりと言った。中日関係がこれほど厳しくなったなかで、政治家は身を挺して時流を変えなければならないが、マスコミの人は、中国との関係が悪化しても、日本にとってはそれほど不利益ではないと見ていたのだろう。
「中国にパイプを持っている」ことは、ある意味で“汚い”というイメージが日本にはあるのではないか。とくに中国を報道する記者たちは、そのようなイメージを一番強く感じていたのではないだろうか。
政治家もそのあたりは敏感だった。数年前に中日友好議員連盟のある代議士を取材した。「中国は、政府開発援助(ODA)から卒業する時期に来ている」と、その先生はスバリ言った。当時、相が靖国神社を参拝し、中国が猛反発していた。突然のODA卒業論は、その靖国参拝反対に対する対抗措置のようにも聞こえた。
卒業させようと考えることは日本の自由だが、中日友好議員連盟のメンバーからそのような話を聞いて、さすがにびっくりした。当時中国の1人当たりのGDPはまだ1000ドルにも行かず、日本のODA基準である1500ドルには遠く届かなかった。中日友好活動に携わっている代議士が大変厳しいことを言う背景には、中国とは一線を画したいという思惑も感じられた。
かつては日本に行って企業トップを取材すれば、中国サイドのデスクは、すぐ目立つ紙面を提供してくれた。今は日本企業のトップに中国でよく知られている人がそう多くないこともあって、記事としての扱いも地味になった。また企業の経営者も簡単には取材できなくなっている。
日本のいくつかの大学の教授の、日本やアジアに関する研究成果などは、かつて中国に強い影響を与えた。しかし、今はビザなしでいつでも中国に出かけて、学術交流などができるにもかかわらず、そのような影響力はかえって薄くなった。中国を専門とする教授、研究者は、昨年来のこのような中日関係の変化に対して、はたして十分な説明をなしえたのだろうかと思う。
現在の日本の、政治、経済、学術研究などほぼすべての分野で、中国を専門とする人材は、どのぐらいの層の厚さがあるのだろうか。とくに戦後の日本と比べると、今日は相当薄くなり、中日関係の疎遠はそこから来ていると思われる。
グローバリゼーションに立ち遅れた
日本マスコミの情報発信