被災地入り記者の取材に同行
3月14日夜9時、中国から来た『広州日報』の記者6人は、1人が東京に残り、あとの5人と陳群雄さんはバスをチャーターして、その夜のうちに仙台へと急いだ。まもなく宮城県境というところで、高速道路が封鎖されて救援車両しか通れないということで足止めされたが、陳群雄さんが粘り強く状況を説明してなんとか緊急パスをもらい、やっとのことで宮城県仙台市に入った。
3月15日朝5時、陳さん一行は仙台に到着した。『広州日報』の記者5人は、地震の被害が大きかった地域を1週間ほどかけて取材する予定で、陳さん1人では手が足りなかった。そこで朱雅琳さんと彼女の同級生2人も、記者のためのガイドと通訳に駆り出した。
彼らは避難所を取材して、被災者の状況を尋ねた。スーパーに行って市民が買い出しに並ぶ様子も取材した。午前11時、仙台港付近に着くと、辺り一面ひどい状態で、目を覆うばかりだった。11時30分、仙台空港に向かおうとしていたとき、『広州日報』の関係者からの国際電話が飛び込んだ。放射線量が増加しており、スタッフの安全のため直ちに戻るようにと言う。12時すぎ、陳群雄さん、朱雅琳さんら中国人留学生と『広州日報』の記者はバスで仙台を離れて東京に向かった。
帰路での体験放射能漏れの起こった福島を通る
仙台から東京へは、もともと2本のルートがあった。1本は新潟を通るが、かなり遠回り。1本は福島を通り、やや近道だ。日本人運転手は早く被災地を離れたかったと見えて、とったのは福島のルートだった。しかし放射能漏れが起こったのは福島の原発だったのだ。
「まったく緊張しなかったと言えば嘘になります」。陳群雄さんは振り返る。彼らは福島県内を1時間あまり走った。カーテレビはひっきりなしに放射能漏れのニュースを流し、原発から10~30キロ圏内の住民に屋内退避して外出しないように、防護措置をとるように呼びかけた。途中で、『広州日報』の記者たちはそれぞれビデオを撮り、その中で話をした。このことで彼らの緊張は一段と高まったが、陳さんは怖いと思わなかった。
「かなり緊張はしました。なんといっても日本に来て初めてのことでしたから」。朱さんは後に打ち明けた。幸い、彼らが通ったルートは原発から50キロ圏外で、何事もなかったことが後でわかった。
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