同胞の手助け「格安」航空券を入手して無事に帰国
緊急パスがあったため、高速道路はスムーズだった。バスに5時間揺られて、午後5時ごろやっと東京に到着。全員がほっと一息ついた。東京に1人残っていた『広州日報』の記者は、帰国便のチケットを1枚1万元ちょっとで買ってあった。出発前、記者たちは陳さんの手を握って「君に感謝するよ」と言った。件の日本人運転手はこっそりと「今回はさぞ稼いだんだろうね?」と尋ねたが、陳さんはにっこりしただけだった。稼ぐことなど考えてもいなかったのだ。
航空券は入手困難で、朱雅琳さんたちは帰国の手だてがなかったので、とにかくまず泊まるところを確保したいと考えていた。陳群雄さんが借りていた部屋はせまかったが、1人の同胞男性を泊めることにした。朱さんともう1人の女子学生はホテルに泊まるしかなかった。うまい具合に、あるホテルで応対してくれたのは中国系の人だった。彼らが仙台の地震被災地から来て、帰国したがっていることを知ると、「ちょうどこちらに帰国の航空券が5枚あります。明日の午前ですが、いかがですか」と親切に言ってくれた。彼らが思いもよらないことに喜んで尋ねてみると、1枚5600元とかなり安い。陳さんは帰国するつもりではなかったが、航空券があるならと、朱さんたちと一緒に帰国することにした。
16日午前11時、4人は東京発北京行きの飛行機に乗り込んだ。
淡々とインタビューに応じる「中国人が国外で助け合うのは当然」
16日午後3時、彼らは無事に北京に戻り、朱雅琳さんの兄の家に到着した。帰国してもう安全だからとあまり急ぐこともなく、おまけに2、3日というものろくに眠っていなくて疲労困憊だったため、何日か休んでから帰郷することにした。
3月19日、陳群雄さんと朱雅琳さんは一緒に北京から瀏陽市の家に戻った。このとき初めて陳さんの両親は、息子が日本で、ふつうの人なら「危険」と考えることをしたのを知った。しかし両親は何も言わず、息子を見て「戻ってきてくれた、それだけでいい」と言った。
記者のインタビューに対し、陳群雄さんは淡々と語る。「父は消防隊員で、僕は消防隊で育ったようなものなんです。火事が起きると、父と戦友たちが危険をものともせず消火にあたるのをしょっちゅう目にしていました。だから危険や災難に対しても、ふつうの人のように慌てたり怯えたりしなくて、ちょっぴり勇気があったんです。それに、同じ中国人で国外にいるんですから、助け合うのが当然です。僕が他の人を助けた、そして他の人も僕を助けてくれたじゃないですか。ホテルのあの親切な中国人が手を貸してくれなかったら、僕たちはこんなに早く帰国できたかどうかわかりませんよ」。
(原文は長沙晩報記者顔新武、劉軍、日本語訳は古屋順子)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年3月28日