古城さんが私の勤める学校に来て、学生たちと日本語について話し合うという機会が何度かあった。私や学生たちが投げかける日本語文法についての質問に対し、どんな風に説明すればよいものかといささか困った様子だった。もちろん彼女は日本語教育について学んだことはなく、したがって日本語文法を深く考えたこともないわけで、我々のような、文法に対して少し生真面目ともいえるような人たちを相手に、うまく答えることは本当に難しかったろう。後になって私が日本に留学し、日本人から中国語文法について質問され、自分もまたうまく答えられずにいた時、その時の彼女の気持ちが更に理解できるような気がしたものだ。
“まず私が読みますから、その後に続いて読んでください” 古城さんに続いて全員が声を揃えて教科書を読んだ。教室には朗読の声が明るく響き渡った。後になって分かったことだが、彼女は東京でしばらく仕事をしていたものの、発音には鹿児島訛りが少なからず残っていた。“実は私、きちんとした標準語は話せないんですよ”と率直に言ったことがあったが、私は私でずっと気にとめていなかったのだ。数年後私は東京に行き、方言とはこういうものか、とやっと理解したのだが、次に再び彼女に会った時には、彼女の発音はかなり標準語に近いものになっていた。彼女は仙台出身の男性と結婚し、苗字が小林となり、2人の子供に恵まれた。彼女に出す手紙の宛名が小林三千代に代わっても、私の心の中では昔と変わらず、中国語での呼び名“Gucheng”のままだった。
十数年前、古城さんとご主人は仙台に引越し、若林区で小さなお店を開いた。きっと女の子が欲しかったのだろう、夫婦には2人の息子に続いて娘が生まれた。嬉しくて仕方がないといった様子で、私のところにも写真を送ってきてくれた。
彼女の年齢を尋ねたことは一度もないが、たぶん私より年上だから、今50代そこそこだろう。日本女性の優しさ、誠実さ、そして温かさは、彼女とのそう多くはない交流を通して私の心に刻まれることとなった。今回の震災で、仙台若林区が津波で非常に大きな被害を受けたことを知り、悲しく、やりきれない気持ちでいる。想い出せば今も、まるで彼女の淡い香りがすぐそこに漂い、鹿児島なまりのその声が耳もとに迫ってくるかのようだ。どうか、どうか彼女とご家族が無事でありますように。心から願う。
「Billion Beats 日本人が見つけた13億分の1の中国人ストーリー」より
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年4月21日