◇日本統治下での苦しい日々
王樹峰さんは「あの日以来、誰もが苦しい暮らしを強いられるようになった」と語っている。旧日本軍は瀋陽を占領しただけでなく、中国東北部全体を掌握しようとしていた。どの地域でも、すべての機関の長は日本人で、中国人の部下らは日本人の言うなりになるほかなかった。一般庶民が毎日食べるものといえば雑穀ばかりで、コメや肉を食べることは犯罪と見なされた。
こうした状況下で、王樹峰さんが働いていた蔵元も立ち行かなくなった。1932年、職を失った王樹峰さんは河北省の実家に帰ったが、頼る者もいなくなった王樹峰さんは、瀋陽市内に住む姉夫婦を頼りに、再度、瀋陽に戻って来た。
日本統治下で、瀋陽の街はまず安定した治安を維持していた。だが、すでに王樹峰さんが知っている瀋陽の街ではなくなっていた。
王樹峰さんはその後、ロウソク屋で働き生計を立てるようになった。長く苦しい亡国の民としての生活が始まったのである。
往年のことをあれやこれやと話している内に、いつのまにか帰る時間になった。王樹峰さんはまだ話し足りない様子で、取材記者も立ち去るのが惜しい気持ちがした。王樹峰さんの息子は笑顔で「またいつでもいらして下さい。手料理と酒を用意しておきますから。その時はうちの父と酒でも交わしながら、父の昔の話を聞いてやって下さい」と言ってくれた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年9月21日