11月1日、上海万博閉幕一周年を記念して、日本僑報社は日本館館長を務めた江原規由氏の手記を掲載した。
日本僑報社から『上海万博とは何だったのか』を刊行したばかりの江原規由(えはらのりよし)氏は、中国経済専門家。1975年東京外国語大学卒業後、日本貿易振興会(ジェトロ)入会。1993年よりジェトロ大連事務所開設・赴任。2003年ジェトロ北京センター所長、企画部事業推進主幹(中国・北アジア担当)、海外調査部主任調査研究員を経て、2010年上海国際博覧会日本館館長、同日本政府副代表。2011年国際貿易投資研究所(ITI)研究主幹。
氏の手記は以下の通りである。
『上海万博とは何だったのか』表紙
筆者が上海万博日本館の業務に就くため上海に着いたのが、2010年3月18日でした。まだまだ、コートを離せない季節でしたが、しばらくすると、柳が大地にすがすがしい緑を添える頃になり、上海花の白モクレン、マグノリアが目立つようになりました。そんな風景を見ていると、やがて始まる上海万博がぐっと身近に感じ、わくわくしたものです。
上海万博開幕の1日前の4月30日、黄埔江に面した文化センターで歓迎晩餐会が盛大に挙行されました。中国の胡錦濤国家主席は、「共創美好未来」(美しい未来を共に創ろう)と題し歓迎の挨拶をされました。その後の舞台で繰り広げられる数々のアトラクションを見つつ、会場にいる誰もが明日から世紀のイベントが始まると実感していたと思います。その時、筆者も感無量の思いでその場にいられる幸運をしみじみ感じていました。
そのちょうど2年前の4月28日、筆者は、心臓の大手術をした直後の病床にありました。胡錦濤国家主席が、中国の国家元首としては、1998年の江澤民国家主席(当時)の訪日以来10年ぶりに訪日された時で、テレビの画面には、胡錦濤国家主席が、三民主義を唱え中国の近代化の基礎を築いた革命家孫文を陰ながら援助した梅屋庄吉翁ゆかりの松本楼を訪問する姿が放映されていました。その時は、まさか2年後の4月30日に、筆者が上海万博の浦東会場の文化センターの歓迎晩餐会会場にいて、胡錦濤国家主席が、筆者の座る左手前方のすぐ近くで歓迎の挨拶をされているのを目の当たりにすることになろうとは夢にも思いませんでした。
上海万博開幕後も、いろいろなご縁と醍醐味を感じました。何といっても、上海万博が2010年に開催されたことが、中国にとって大きなご縁であり巡り合わせであったのではないでしょうか。上海万博は、人間の人生に喩えると、孔子の説く、(『而立』、30にして立つ)と(『不惑』、40にして惑わず)の2つの境地に、中国が達しようとしていることを世界にアピールした大イベントであったのではないでしょうか。
上海万博開催年に世界第二位の経済大国になった中国が、今後、世界とどう向き合ってゆこうとしているのか、内外が注目する中、上海万博は開催されました。
万博会場には、中国、世界各地から7000万人を超える人たちがやってきました。日本館は、500万人を超える人に参観していただきました。日本館の運営には1000名を超える人が関係しました。こうした人たちを目にし、彼ら彼女らと話を交わせたのは、筆者にとって大きな巡り合わせ、ご縁であり、万博の醍醐味でした。
『上海万博とは何だったのか』は、こうした人との巡り会わせと万博の醍醐味を中心に構成されています。また、中国の経済、社会、そして、人々がもっているダイナミズムとエネルギー、中国と世界の関係などについても、上海万博をフィルターにして論じたつもりです。
中国共産党の建党90周年の前夜である2011年6月30日、首都北京と万博開催地であり世界のビジネスセンターとなりつつある上海とが高速鉄道(日本の新幹線に相当)で結ばれました。目下、中国のいたるところで高速化が進んでいます。中国各都市間での時間的距離がますます縮まりつつあります。
上海万博が、中国に残したものは、世界との心理的距離の縮小ではないでしょうか。上海万博の開催で、世界の、そして、隣国日本の多くの人が中国を百聞一見し、多くの中国人が万博会場で世界に触れることが出来たのではないでしょうか。
『上海万博とは何だったのか』が、等身大の中国を知る上で、読者に少しでもお役に立てれば何よりです。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年11月2日