講和会議に、日本が1931年以来15年にわたって多大の迷惑をかけた中華人民共和国は招かれず、東西陣営に中立の立場をとったインド、ビルマ、ユーゴスラビアは欠席した。ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは会議に参加したが、条約を不満として調印拒否した。
当時国内世論は、全面講和か、片面講和かで割れていた。財界・保守党は片面講和に熱心、知識人・野党・組合などは全面講和を切望した。
講和に引っかけて、日米安保条約を締結した。有効期限がなく、米国が日本に軍隊を駐留させる権利を確保した。その建前は日本が軍隊維持を希望したので、米国がそれに応えるというまことにありがたいものであった。
唯一の本土決戦があって、おまけに旧日本軍によって多数の県民が殺害された沖縄は、米軍施政権下に取り残された。沖縄県祖国復帰協議会は講和条約発効の日を「屈辱の日」と命名した(1960)。忘れたくない。
講和・安保条約発効の日、日本は台湾の国民政府と日華平和条約を締結した。日米は、吉田茂首相とJ.ダレス特使の間で《日本は中華人民共和国と講和を結ばない》という密約ができていたのである。
常識的に見て奇妙奇天烈である。敗戦国日本が戦勝国中国の政権を選択した。国民政府を名乗っているが、すでに中華人民共和国(1949.10.1建国)は巨大な新中国として登場している。どちらが正統か言うまでもない。
その結果、日本と中華人民共和国の戦争状態が田中角栄訪中(1972)まで敗戦後30年近く継続したのである。