大日本帝国憲法発布(1889.2.11)に際しての勅語に「----現在及び将来の臣民に対してこの不磨の大典を宣布す」とあったが、不磨・不朽の憲法が存在しないのは当然だから、ずいぶん傲慢な表現をしたものである。
憲法は高度の安定性を持たねばならない。併せて、社会・政治・経済の変化に釣り合わないものではならないから、必要な可変性もまた持たなければならない。不磨の大典が存在しない客観的理由である。
安定性と可変性の二つは矛盾している。そこで憲法改正手続きを定めつつ、その改正要件を厳格化する、いわゆる「硬性憲法」(rigid constitution)というのが日本国憲法の決まりである。
仮に国民の圧倒的多数が改憲を希望したとしても、どこかで論議して改正案を用意しなければならないから、各議員総数の2/3以上が賛成して、国会が改正案を発議し、国民の過半数の賛成を必要とすることにしている。
改憲論を唱える政治家が多いそうだが、政治家倫理として、「自分たちは日本国憲法の掟によって存在する」のであることを、まず真剣真摯に頭に叩き込んでおいてもらいたい。国民の憲法であって、政治家の憲法ではない。
ゴリゴリ改憲論者は、日本国憲法施行(1947.5.3)の数年後には憲法改正の声を上げた。いわく、占領下憲法である。わが国の歴史・伝統・国民性にそぐわない。独立国として(軍を持たないのは)おかしい、などである。