中日関係をつないで考察すると、歴史の別の側面がみえてくる。三国、魏晋南北朝時代、中国の政局混乱に乗じて日本は半島に出兵し、事実上半島の宗主国となった。西暦663年、朝鮮半島(白村江)で唐と日本の大規模な戦争が初めて勃発。この戦争で唐軍が大勝し、日本は中国の実力を思い知り、16世紀末までの1000年近く朝鮮半島に手を出さなかった。1592年豊臣秀吉が日本を統一後、朝鮮を攻めるとともに、明を征服しようとした。明と朝鮮の連合軍は苦戦の末、豊臣軍を壊走させ、その後明治維新まで300年近く半島に手を出さなかった。
三国時代から1800年にわたって国づくりに精進したことで、日本の中国に対する優勢が明治維新をきっかけについに形成。帝国主義の見識を広げたことで、日本のアジアや中国に対する侵略の邪念が生まれたわけではない。甲午戦争(日清戦争)後の中日戦争は1500年で中日の実力が逆転したことの現実的結果となった。
今日の釣魚島をめぐる争いは、歴史的に日本が追求してきた現状変革という国家観の延長線上にある。「現状」の「変革」と「回復」をめぐり中日間の対立は今日まで続いている。これこそが客観的な「因果関係」だ。
中日関係は世界で最も複雑な二国間関係の一つで、それと向き合うには大きな勇気がいる。両国の国民が友好関係を構築するには、歴史認識における「対称性」が欠かせない。一方が単純に「友好」を強調し、相手がそう考えないなら、こうした「友好」は形式的なものとなる。形式的なものには生命力がない。▲(在日学者 岳光)
「中国網日本語版(チャイナネット)」2013年6月7日