■日本は被害者の調査をせずに書類を作成
1945年8月の敗戦前夜、日本はその罪の重さをよく知っているがゆえに、証拠を隠滅し、犯罪行為を隠すよう政府各部門および占領区当局に密命を下した。これには中国人労働者の強制徴用と奴隷的酷使に関する書類も含まれた。
当時の国民政府は、中国人労働者の日本での状況について報告するよう日本に繰り返し要求した。中国政府と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対応するため、日本政府は中国人労働者の帰国から1カ月後、やむを得ず調査を開始。1946年1月下旬に日本外務省は中国人労働者を使用した各企業に速やかに調査報告をまとめるよう指示した。外務省は3月に調査員16人を4組に分けて、各作業場で調査を行い、「備忘録」を作成。1946年6月に両資料を基に「外務省報告書」をまとめたが、表紙に記された日時は3月1日だった。
合同慰霊祭執行委員会の林伯耀事務局長は「以上3つの資料はいずれも生存者の帰国後にまとめられたもので、被害者の側の調査を全く行わず、中国人労働者を奴隷的に酷使した日本企業および日本側調査員の意見のみに基づき作成されたものだ。このため真実性は大いに削がれたが、それでも中国人労働者の強制徴用と奴隷的酷使の歴史の整った記録であり、貴重な歴史資料だ」と指摘した。
■複数の訴訟で書類を採用
北京市方元弁護士事務所の康健主任は元中国人労働者関連の訴訟10数件に直接参加した。康氏によると日本では1994年に「外務省報告書」が公表。康氏らは元中国人労働者関連の訴訟を開始した1995年の段階から、書類の一部資料を採用してきた。「書類は訴訟に良い役割を果たした」。これまで10数件の裁判が日本で行われた。日本は三審制で、一審や二審で勝訴したものはあるが、終審ではいずれも敗訴した。「政治的理由があるかも知れないが、少なくとも事実認定においては日本側も認めている」。(編集NA)
「人民網日本語版」2013年9月20日