文=コラムニスト・陳言
東京から長野県を取材に訪れる途中、いくつかの有名な都市を通過したが、日中でもシャッターを閉ざしている店が多かった。映画『あゝ野麦峠』は長野県を舞台とした。100年前の長野県は現在よりも繁栄していた。養蚕業の発展により、長野県は長期に渡り日本の工業の中心的な県となった。明治以降の歴史において、経済界と政界の多くの有名人が長野県から輩出された。しかし今や、当時の勢いと繁栄は見る影もない。
日本の町の多くは、ある産業が集約した結果であり、長野県の各市は特にそうだ。長野県は養蚕による紡績を中心産業としていたが、これらの産業の代わりに石油化学工業が登場すると人口の流出が始まり、都市化が減速し、今や衰退の様子が見て取れるほどだ。
都市化を促す産業
西側諸国の純粋な商業都市、及びその後の政治都市と異なり、日本の都市の多くはある産業を根源としており、産業により町から都市に拡大している。一部の産業の急速な発展は、新たな大都市を産んだ。
日本には、政治都市がないわけではない。明治維新前の江戸は、幕府の将軍の所在地で、幕府を守る旗本が将軍の住所の付近に居住し、封建領主の大名はより遠い場所に住み、自らの事務所兼住宅(屋敷)を建設した。
近代の日本の新しい都市は、主に産業の発展と共に誕生した。そこでは、欧州・アメリカ大陸・アジアの各国が直面した問題が出現しなかった。欧州およびアメリカ大陸の都市化の過程において、多くの農民が都市に殺到した。しかし都市は新しく増えた人々に雇用機会を準備しておらず、多くの住所不定無職の人、スラム街が生まれた。工業先進国は第二次世界大戦後、スラム街の問題をある程度解決したが、中米などの国、現在のインドなどのアジア諸国で、スラム街の数は減少するどころが規模を拡大している。路上の行商人、住所不定無職の人などが、都市化の重要な問題となっている。
日本の各都市を巡ると、すでに繁栄期を過ぎ衰退を始めた都市でも、スラム街を見ることはなかった。大都市では時々、暮らしが特に苦しい貧民を見かけることがあるが、中小都市や町で見かけることは少なかった。産業による都市化において、工場などの産業の労働者の需要が、日本の都市化の原動力になった。一つの産業が衰退に向かえば(石炭業、紡績業、鉄鋼業など)、都市の衰退を招くことになる。しかし日本の都市の産業モデルチェンジは上手く進められ、長期間の発展を維持できている。
サービス業による新しい都市