大胆な計画が日本軍の大本営で論争を引き起こす
真珠湾攻撃の後、山本五十六は軍の指導者と頻繁に会い、ハワイを占領すれば日本軍は米国西海岸、アラスカ、パナマを直接威嚇し、米国の志気に致命的な打撃を与え、日本の東アジアと西太平洋での中心的地位を認めさせることができると繰り返し説得した。しかし、陸軍参謀本部と海軍司令部は山本の計画を冷たくあしらった。陸軍は自らの戦略のため、海軍に陸軍の東南アジア作戦に協力し、インド洋に防衛線を敷くことに力を入れるように求めた。伝統的戦術の構想を堅持する海軍司令部は、連合艦隊は力を保存して米艦隊との「ジョイント・エア・シー・バトル」の用意をすべきだが、ハワイを攻めれば日本軍の長い補給線は米軍の艦艇攻撃のもとに晒され、島に住む40万人も日本軍に対抗すると考えていた。
ハワイに「真っ向からの攻勢」をかけるかを巡り、日本軍の大本営では空前の激しい論争が引き起こった。1941年12月から42年3月にかけて、陸軍参謀本部、海軍司令部、連合艦隊の参謀役は何度も顔を合わせ、この計画の実行可能性を極秘で討論した。しかし、話し合いはずれを埋めることができないどころか、陸軍と海軍の溝を深めた。3カ月以上の論争の末、陸軍と海軍はなんとか妥協点に達した。
このような状況の中、山本は真珠湾の西のミッドウェー島をハワイ占領の「踏み台」にしようと考えた。1942年3月から4月まで、山本の催促を受け続け、連合艦隊参謀部は作戦計画を早急に練った。この計画は、ミッドウェー島を支配し、米海軍の空母編隊を日本軍の包囲網に引き入れることを最初の一歩とし、ミッドウェー島で足場を固めた後に連合艦隊が歩を進めていき、1942年8月に太平洋中部のジョンストン島とバルミラ島を占領し、10月にハワイ諸島への上陸作戦を開始し、1943年3月までにワフ島を支配するというものだった。米軍との「ジョイント・エア・シー・バトル」構想を堅持する海軍司令部に支持を促すため、山本は様々な方法を使い、辞職の脅威も顧みずに行動し、最終的にこの計画の許可を得た。これに対し、海軍指令官は「山本は本当に頑固で困る」とやるせない様子で話した。
また、山本の計画を強く反対してきた陸軍も突発的な出来事によって態度を変えた。1942年4月18日、日本の真珠湾攻撃への報復として、米軍のドーリットル中佐率いる16機のB25爆撃機が遠くから襲いかかってきて東京などの都市を空襲した。この空襲がもたらした実際の損失は小さかったが、日本をおびえさせ、日本本土は「絶対安全」と言っていた日本軍の顔もつぶした。米軍の空母艦載機による脅威により、日本陸軍は太平洋に重心を移行させるしかなくなった。米軍が東京を空襲した翌日、陸軍参謀部は田中新一少将を通して海軍に陸軍が太平洋に「真っ向からの攻勢」をかけるかを考え直すことを伝えた。その二十数日後、陸軍は山本の「ハワイ占領」計画に加わることを決めた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2014年5月14日