日本人戦犯・島村三郎の1954年7月の供述書によると、島村は1908年に日本の高知県で生まれた。1934年10月に偽満蒙蔵部調査科属官、1945年7月に偽警務総局特務処調査科科長・偽中央保安局第5課科長に任じられた。
島村が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1939年2月上旬には、情報に基づき、「共産党地下組織が依蘭県城内にあるを発見し」、依蘭県警務科長の中野に命令し、「関係者一〇〇名以上を検挙せしめました。拷問を加へて訊問したる為、一名の愛国者はヘルニヤ症激化し死に至らしめ、今一名の愛国者を佳木斯に護送途中、松花江に投身し、自殺せしめて殺害しました」
同年8月には、「関係愛国者六〇名以上を検挙、拷問を以って訊問、十七名以上の愛国者を法院に送り、その内一〇名以上の愛国者を死刑を以って殺害せしめました」
同年10月には、通河県の地下共産党が監獄内の愛国者と連絡し、義挙を起こした。これを鎮圧するため、「判明せる事件関係愛国者一〇〇名以上を検挙し、その内三〇名以上の愛国者を法院に送り、内十名以上を死刑に処す犯罪を犯しました」
同年11月には、湯原県水泡子付近の農家で蘇連の情報員が2回宿泊したという情報を入手し、加藤警正を派遣して、「農家より二名の平和居民を検挙せしめ、拷問を以て訊問しました。その為一名を殺害しました」
1941年2月から7月までは、肇州県で在職中、「検挙せる愛国者の数は(中略)約二〇〇名、内法院に送りし者七〇名、その内死刑を宣告された者は三〇名の多きに達しました」(編集MA)
「人民網日本語版」2014年8月5日