文=ラナ・ミッター
東南アジアの国際秩序が確立されていない大きな原因のひとつに歴史問題がある。戦後70年を迎え、その戦争をどう理解するのが正しいかについて中日両国民の間で見方が分かれている。何十年も前の戦争がなぜ現在のアジアを主導しているのだろうか。その原因を調べるとともに、戦後の「未完の事業」を再認識する必要がある。時代はアジア地域の変化を考えなければならなくなっている。
アジアでは歴史の共通認識が「未完」
ヒトラー・ドイツが1945年に降伏後、歴史は新しい段階に入った。冷戦によって欧州の多くの地域の交流は途絶えたが、西側と東側では歴史問題に対する認識が一致している。すなわち「ナチスドイツはヨーロッパの安全を脅かした、邪悪な国内政策を信奉した国であり、打ち負かされるべき国であった」というものだ。しかし東南アジアには近代の歴史についてこのような認識の一致がなかった。アジアにはヤルタ会談もポツダム宣言もなかった。1945年、中国の国際問題における地位が大きく上昇した。米国のルーズベルト大統領は、中国を4大警察(その他は米国、ソ連、英国)のひとつと呼んだ。1937年に日本と戦争を開始し、多くの領土を植民地とされていた中国にとって、極めて大きな変化である。1918年の第一次世界大戦終了後と1945年の第二次世界大戦終了後の大きな違いは、同盟国の中の重要な反帝国主義の国として中国という、欧州以外の国があったことである。中国では約1400万人(編集者注:中国の公式発表は3500万人)が犠牲になり、8000万人以上が難民となった。中国軍は50万人を超える日本軍をけん制した。これらの犠牲によって中国は戦後のアジア地域の秩序を再構築する権利を手に入れたのである。
しかし、アジア地域全体の変化をもたらした大きな要因は中国国民党の壊滅と毛沢東率いる中華人民共和国の成立であった。その後、新中国は米国と互いに国を認めず、このことが現在までアジア地域の歴史の清算問題について影響を与え続けてきた。欧州と異なり、1945年はアジアの「未完の事業」に過ぎなかった。地域の和解と相互理解を実現するという構想は賞賛に値したが、それは絵に描いた餅であった。同地域に強力な機構を作るための条約など、基本的な枠組みが何も存在しなかったためだ。しかも主要国の間にアジア地域の戦争をどう終結させるかについて意見の相違があった。米国は1952年のサンフランシスコ講和条約において日本との戦争状態を終結させたが、新中国はこれに参加していない。米国と中国はこのとき国交がなく、共同機構を構築することや、意見の溝を埋めることは不可能であった。(作者は英国オックスフォード大学中国研究センター主任、教授、著書に「中国、忘れられた友人、西洋人から見た抗日戦争全史」)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年4月8日