資料を集めてから返還を要求
1948年に入ると、国際情勢に変化が生じた。米ソの対立が深刻化し、中国でも共産党が国民党に反撃する段階に入っていた。米国は公然と日本を支持するようになり、日本を極東の橋頭堡にしようとした。
ゆえに米軍は日本への返還要求を放棄するよう他国を極力説得し、被害が最も深刻な国の提案に公然と反対した。極東委員会は1949年6月23日に会議を開き、文化財の補償に関する投票を行った。中国、ソ連、米国、英国、フランス、フィリピン、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インドなどの11カ国のうち9カ国が賛成票を投じ、ソ連が棄権した。米国が拒否権を発動したため、本件は見送られた。米国などの国の政策により、日本に奪われた大量の文化財が、戦後も中国に返還されないという深刻な事態となった。
陳教授によると、文化財の返還については、前世紀の時点で国際法の先例があるという。ユネスコは近年、現代国際法の「戦争が原因で奪われた、もしくは失われた文化財はすべて返還されるべき」という原則を提唱した。この原則は、すでに国際社会の普遍的な合意事項となっている。陳教授は、「中国はまず基礎的な資料集めを徹底し、文化財の関連データとソースを明らかにし、法律の面から返還を求めるべきだ」と指摘した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月28日