1931−1945年の14年間に渡る中国侵略戦争において、日本軍は中国の貴重な文化財を破壊・強奪し、大問題となった。しかし戦時中の特殊な事情により、日本軍に破壊されるか、強奪され日本に運ばれた中国の文化財については、現在も詳細かつ正確な統計データが存在しない。
上海大学の陳文平教授は日本に5年間滞在し、現地の博物館と個人の展覧会を訪れ、多くの名簿に記録されていない貴重な文化財を目にした。日本への返還要求は戦後から続けられている。陳教授はこの歴史を理解するため、戦後訪日し文化財の返還を求めた収集家の王世襄氏(故人)を訪問し、事情を聞いた。
陳教授は、「日本が保管している中国の文化財の多さ、幅広さ、質の高さは想像しがたいほどだ。またこれらの戦争によって奪われた文化財の返還も、非常に困難だ。失われた文化財の資料とデータの整理作業から初め、失われた経緯をまとめなければ、返還のための障害物が残されたままとなる」と指摘した。
陳教授は1999年7月に遠路はるばる北京を訪れ、日本に文化財の返還を求める中国代表団の専門家だった、王氏を訪問した。王氏は故宮博物院、北京文物研究所の研究員、有名な文化財専門家だ。
王氏によると、故宮博物院の馬衡院長(当時)は1946年8−9月頃、南京清損会(戦時中の文化財の損失に関する情報を整理する委員会)からの手紙を受け取り、文化財の返還について交渉するため日本に人員を派遣すると語った。
王氏は最終的に、南京清損会によって日本に派遣される専門家となった。南京清損会は当時、出張費、服装費、文化財の中国への輸送費などを含め、王氏に2000ドル渡した。
王氏によると、戦後の文化財の返還には、数多くの困難が待ち受けていた。代表団は訪日後、GHQの文化財返還に関する規定を目にし、失望させられた。規定によると、文化財の返還を求めるためには、抗戦時代に日本に奪われるか盗まれたことを示す確かな証拠が必要だった。失われた文化財の名称、年代、外観、サイズ、重さなどを列挙し、写真もあるとなお良かった。奪われた文化財の本来の所有者、保管場所、奪われた時期などを記入する必要があり、日本軍に奪われたものならば番号などを書かなければならなかった。こうして初めて資料が揃い、GHQは日本政府に文化財の行方を調査するよう促すことができた。資料が揃っていれば返還されるかについては未知数だった。資料が揃っていても、見つからなければ徒労だ。中国から送られた資料を見ると、資料が揃っている文化財は一つもなかった。中国の文化財の多くは日本の侵略戦争中に失われており、都市・町・村は爆撃や略奪を受けていた。国家の危急存亡の時に、文化財の損失に関する整った資料を残せるわけがあるだろうか。ましてや日本軍の番号を記入するなど、不可能なことだ。この番号は機密事項だからだ。GHQの当時の規定には無理があり、実に腹立たしい。日本にとって有利、中国にとって不利なだけで、肩入れしていると言えるほどだ。これは事実上、中国の文化財の返還の障害となった。当時GHQのこのような規定に従う必要はないと判断し、理論で争おうとしなかったため、その後の返還に向けた作業が進められなくなった。より詳細で整った資料を送るよう、中国に求めるしかなかった。また揃っていないという資料も、日本政府に提出しなければならなかった。当然ながら日本政府は資料が揃っていないことを理由に調査できないと回答でき、何も得られなかった。