だがこの合意によって日韓の対立が平和へと導かれ、「相逢いて一笑すれば恩仇ほろばん」(魯迅)ということになり、韓日の関係の新たなスタートが開かれると考えるのは、楽観的に過ぎるだろう。当事国の心からの誠意ではなく、外部の強力な介入と仲立ちによって和解が成立したとすれば、その短期的な功利性と長期的な有効性に疑いがあると考えるのは自然である。韓国の庶民はこの妥協を無理やり受け入れるかもしれないが、それが深刻な反省や後悔から来たものでないことは承知している。日本が強制徴用の事実を否定し、正式な公開のお詫びは拒否して書面でだけ謝罪し、「賠償」はあくまで拒否して「出資」を主張するなど、その日和見的であいまいな態度に対しては不満の声が高い。慰安婦支援団体の中には、これは露骨な外交的結託であると公に非難するものもある。「中央日報」などの韓国紙の社説も、日本がこれからも言葉とは異なる行動を続け、表と裏を使い分け続けるとすれば、合意は意味を持たなくなると指摘した。
合意が達成された日、安倍夫人が靖国神社を参拝したという知らせが伝わってきた。また安倍首相本人は、慰安婦問題は完全に解決されたとし、自らが謝罪することももうないとした。慰安婦の合意が達成されたばかりでこうした本音が出てくるのを見れば、「和解」の脆弱性や便宜性は明らかだろう。
だがさらに重要なのは、最大の被害者である中国が参加することなしには、和解はいつまでも未完成なものにとどまるということだ。日本側がどう考えているにせよ、歴史に関する和解が成立していない被害国が一カ国でもあれば、その歴史的な責任が軽減されたとは言えず、おわびや賠償の受けられない被害者が一人でもいるなら、歴史の正義への追求は続いていくということを理解する必要がある。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2016年1月5日