近代以降、中国の多くのインテリが東の日本に渡り、明治維新の新たな成果を学び、中国の滅亡を救い生存を図る道を模索しようとした。多くの中国人留学生が集まる早稲田大学には、中国共産党の早期指導者である李大釗の足跡が残る。
李は1913年冬に日本に留学した。李は日本渡航後、牛込区戸塚町520番地のキリスト教青年会に入り、日本語と英語の学習を開始した。李は1914年9月、早稲田大学政治学部に入学した。
李は日本で約2年半留学した。本人はその経歴について具体的に述べておらず、関連する歴史資料も全面的に開放されていないが、歴史学者は当時残された資料から、李の日本生活の軌跡を追い求めることができた。
早稲田大学の中国人留学生受け入れの歴史は、20世紀初頭まで遡ることができる。早稲田大学は当時、中国人留学生を毎年数百人受け入れていた。早稲田大学は管理のため、清国留学生部を設立した。通常2年制で、中国人学生は修了後、選抜試験により本科に進学し、日本人学生とともに学ぶことができた。
早稲田大学の大学史資料センターには、100年以上前にここで留学した中国人留学生の資料が保存されている。記者は大学部政治経済科、大正四年度学費領収簿の中に、李の名前を目にした。これは李が留学していた当時の学費簿だ。その記載によると、李は1914年9月に早稲田大学で政治学を2年制で学んだ。この学費簿には李の在学中の支払状況が克明に記録されている。9月9日に学費を5円、10月26日に4.5円、11月9日に4.5円納め……古い資料のため、学費簿の字は読み取りにくくなっている。
それから100年後、李が受講した政治学部跡地に、堂々たる現代的な政治経済学部の校舎が建てられた。各国の若い大学生が、ここを出入りしている。彼らはここで100年前、ある中国人留学生が国の滅亡を救い生存を図る道を模索しようと奮起したことを、想像もできないことだろう。
日本人学者の森正夫は研究中、李の早稲田大学在学中の成績表を見つけた。森氏は、李が浮田和民教授に従い国家学の原理を学び、美濃部達吉教授に従い帝国憲法を学んでいたことを知った。李が国を救おうと焦っていたことが分かる。
李は1914年夏、当時共に日本で留学していた章士釗と知り合った。章はその後創刊された雑誌『甲寅』の主要執筆者になり、力強い多くの文章を発表した。李は帰国後、章から誘われ、『甲寅』の編集担当者になった。
日本は1915年1月、中国に滅亡を強いる二十一カ条の要求を突きつけた。本件は日本の中国人留学生に衝撃を与えた。李氏は在日留学生の自発的な対抗・闘争に積極的に参加した。李が起草した公開電報「警告全国父老書」は中国に伝わり、李はそのために有名な愛国の志士となった。袁世凱は1915年12月、全国民から反対されながら皇帝に即位した。李は1916年初夏に学業を中断し帰国した。
日本の李大釗研究専門家、愛知県立大学助教授の川尻文彦氏によると、李は日本留学中に「国民之卧薪」「厭世心与自覚心」「民彝」「新生命誕孕之努力」など政治色の濃い文章を発表した。これらの文章は、国と民を深く憂える李の心を反映している。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2016年7月1日