人民中国特約評論員 劉華
ここ数年、米日高官の二国間協議のたびに、日本側はいつも一つのテーマ――米側に釣魚島問題に「米日安保条約」第5条を適用することを確認させる―を提起している。毎回、米側が確認した後、日本政府とメディアはこれを大々的に喧伝する。まるで精神安定剤を服用するように、米国が日本に替わって、釣魚島を「防衛」することを確認している。日本側のこうした要求に対して、米国側は毎回同様に全て満足行くように応じている。今年の2月、安倍晋三首相はワシントンを訪問し、トランプ米大統領と会談した。発表された共同声明には、またこの内容が盛り込まれた。安倍氏は帰国後、また国会でこれが両国首脳の共同声明に「初めて」この内容が盛り込まれたことを強調して、彼の重要な外交成果と言わんばかりだった。
それでは、米国は結局、日本のために釣魚島を防衛するのか否か?日本のメディアが喧伝する米国の「保護の傘」は信頼に足るのか?事実は日本側の発表と非常に差異があるようであり、それは二つの肝心の文書―「米日安保条約」と米日軍事分業を規定した「米日防衛協力のための指針(ガイドライン)」に関連がある。
「米日安保条約」が米国のために留保している最大の解釈の余地
先ず、「米日安保条約」は一体どのように言っているのか?
「米日安保条約」第5条は次のように規定している。「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動する」
日本政府の「暗示」、日本メディアの「解釈」は全て、米側の対応した表現は米国が日本本土に対するのと同様に、釣魚島に対して明確に防衛義務の引き受けを表明していることを意味している、と強調している。
しかし、実際上、外交強国の老舗として、米国は外国に対する条約に往々にして、自国のために最大限の解釈の余地と、可能なかぎり十分な「柔軟性」を留保している。この規定に、米国はたとえ一定の義務を引き受けても、これは決して自動的あるいは無条件に「日本を防衛する」ということではなく、重要な前提条件――「本国憲法規定と手順に基づく」―が付帯している。
米国憲法第1条第7項によると、宣戦権は議会にあり、大統領の手中にはない。たとえ大統領が軍隊を出動させるにしても、それは戦争を発動あるいは参加する際には、議会から権限授与がなければならない。これが米国国内の政治設計であり、同様に外交条約義務の「緩衝地帯」と見なされている。米国が対日防衛協力に参与するか否かは、日本の一部で言われているように「きっぱりとして躊躇しない」ことでは決してあり得ず、不確定で曖昧模糊とした部分が存在している。
実際に、「米日安保条約」で使われている「施政権」という字句は、元来、米側が軍事義務を果たすことをなんとか回避するための策である。米日が1952年に調印した旧安保条約に、適用範囲は「(日本)国内」等の用語で表現していた。ただ1960年に現行安保条約に調印する際に、米側が南千島諸島(北方四島)と独島(竹島)問題の面倒に巻き込まれるのを避けるために、特に「施政権」という文言を使用した。ここから分かるのは、「米日同盟」に対して、米国は一面において、対米利益の最大化を図り、一面において、またリスク・コントロールに躍起になっていることだ。
「米日防衛協力のための指針」にもある姦計