「生物兵器は資金や材料が節約できる上、はかりしれないほどの殺傷力を持つ。資源の不足した日本が勝つには、細菌戦に頼るしかない」。千葉県の裕福な家庭に生まれた石井四郎は京都帝国大学医学部を卒業後、欧州に遊学して情報を収集し、財産を売って自費で研究し、細菌戦の熱狂的な唱導と実施の元凶となった。日露戦争で死亡した長兄を除き、2番めの兄と3番目の兄も石井の731部隊に入っている。
血縁や親戚、同郷、大学の師や学生などの関係を利用して作った部隊は、外部に対する絶対的な機密の保持をはかった。日本が1925年にすでに、米国やドイツなど37カ国とジュネーブ議定書に署名し、「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止」を明確に受け入れていたためである。
鬼は一日でできあがるものではない。731部隊元隊員の大川福松も内心の葛藤を経験した。「最初は生体解剖をしないと飯を食わせてもらえなかった。だがだんだん人間そのものが変わっていった」。人体実験ですぐれた成果を上げたため、石井四郎は自分の軍刀を褒美として大川に与えた。罪にまみれたこの凶悪な軍刀は今、731部隊罪証陳列館に収蔵されている。
「合計9回会いに行き、最初は拒絶され、次には了承を受けたが玄関で追い払われ、最終的に証言をすることに同意してもらい、歴史の鉄の証拠としてこの刀を陳列館に贈ってもらった」。金成民は、旧日本軍資料の「防疫給水部隊関係表」を見せ、旧日本軍は戦前に中国や韓国、マレーシア、シンガポールなどに63個の細菌戦部隊を設立し、731部隊だけでも4000人余りがいたが、証言をしている人は30人足らずで、ある人は臨終となって初めて証言し、ある人は回避や隠蔽、否認を続けたと指摘する。
「731部隊のすべての秘密は墓まで持っていかなければならない」! 1945年8月9日、ソ連の赤軍が中国東北部に出兵したと知って、石井四郎は、関東軍の密令を緊急で伝達し、命令文書や実験報告、医療器械などの焼却や爆破を要求し、15本の専用列車を手配して隊員を日本に送り、身分を明かさず、互いに連絡を取らないようにと命令した。石井本人も数カ月後、故郷の千葉県千代田村で死を装い、偽装の葬儀を行い、凄惨を極める犯罪行為を墓に埋めようとした。
さらに憤慨すべきことに、逃亡する時間がなかった12人の旧日本軍細菌戦犯がソ連の極東裁判で審判を受けたほかは、米国は、731部隊の実験データや戦略戦術、組織構造などの秘密を得ることを条件に、日本と秘密取引し、石井四郎など多くの戦犯を審判や懲罰から逃れさせ、歴史の影で生活を送らせることとなった。
だが旧日本軍が潰走した際に爆破しきれなかった遺跡や元731部隊員の証言、日米から収集した最新の資料、発見され続ける貴重な資料など、多くの鉄の証拠がありままの歴史を雄弁に語っている。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2017年9月20日