日本の鉄鋼企業、神戸製鋼による強度やサイズなどの製品データ改ざんが発覚した。日本は「匠の精神」発祥の地であり、日本の技術者はこだわり抜くことで知られる。真面目に集中することは日本人の特長とされているが、これらの企業からはなぜ「匠の精神」が見えてこないのだろうか。
「匠の精神」、かつては日本の代名詞にあらず
筆者は日本人が製造面で、品質を重視する特殊な民族性を持つとは考えていない。これは完全に神話であり、ドイツ人が真面目一徹で、品質を重視すると多くの人が賞賛するのと同じだ。しかしこの説は、歴史の検証に耐えない。
「メイド・イン・ドイツ」は19世紀、今日のような高品質の代名詞ではなかった。英国人は当初、ドイツから輸入した偽造・低品質製品に対して統一的に「メイド・イン・ドイツ」のレッテルを貼り、自国製品の信頼を守ろうとした。「メイド・イン・ドイツ」は当時、安かろう悪かろうの代名詞だった。当時は「真面目、厳格」といったレッテルを、ドイツ人と結びつける人はいなかった。当時の産業強国は英国で、広く賞賛を集めたのは英国人だった。
日本も産業台頭の初期は、下手な模倣者だった。「メイド・イン・ジャパン」は低品質を意味していた。当時の国内の識者は自国製品について、日本人は模倣、荒削りな偽造しかできないと批判を繰り返した。
メイド・イン・ジャパンが高品質の代名詞になるのは、その後しばらく経ってからのことだ。今や人々が喜んで口にする「匠の精神」は、1990年代になり誕生した。
製品の質、市場競争で向上
それではこの「匠の精神」を、どのようにとらえるべきだろうか。
市場に流通する製品の全体的な品質水準は、匠の精神よりも市場が決めることだ。
高品質の製品を生産するためには、技術力だけでなくコストが必要だ。高度に精密な設備、大量の時間、試験と改善の繰り返し、人員の集中力。これらすべてがコストだ。企業はどれほど精巧な製品を作ろうと、市場では最終的に消費者に販売しなければならない。価格はその生産コストではなく、消費者の購買力で決まる。コストを価格に転嫁できなければ、企業は破産する。価格を上げれば商品が割高になり、少数の人しか購入できなくなる。企業の発展も制約を受ける。
そこで企業は通常、生産コストを制御し、多くの消費者の需要に合致する製品を生産することになる。標準化による迅速な量産、市場シェアの最大限の争奪は、消費者の基本的な需要を満たす、企業がなすべきことだ。
我々は企業に「匠の精神」がないことを批判できるだろうか。彼らの経営方針を左右するのが消費者であることは明らかだ。製品が豊富化すれば、消費者はより良い製品を求めようとし、企業もコストを増やし製品の質を高めようとする。企業はその際、自社が利用者の体験をどれほど重視しているかを大々的にアピールし、見返りを手にすることができる。
市場の競争を通じ、企業は製品の質向上を迫られる。このような促進力は、「匠の精神」をはるかに上回る。
神戸製鋼のスキャンダルは、メイド・イン・ジャパンの信用崩壊を意味するのだろうか。まだその程度には達していないはずだが、特殊な材料でつくられた企業など、どの国にも存在しないことを理解しなければならない。企業の製品の質向上は、「民族性」に期待するのではなく、市場の競争が必要だ。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2017年10月16日