『澎湃新聞』記者が7日夜に複数の情報源から得た情報によると、日本福岡県で生まれた戦争残留日本人の水崎秀子さん(中国語名王玉蘭、以下敬称略)が6日午後7時頃、長期にわたって住んでいた陝西省丹鳳県竹林関鎮雷家洞村で亡くなった。89歳だった。
水崎秀子の生活状况を長期にわたって見守ってきた竹林関鎮政府の職員も記者に対し、水崎秀子の親族がすでに弔問のための霊堂を家の中に設けていることを明らかにしている。
『澎湃新聞』のこれまでの報道によると、水崎秀子は1929年、日本福岡県の漁民の家庭に生まれ、一人っ子として育った。1942年、13歳だった水崎秀子は中国長春に送られ、「偽満州国」で商売をしていた父方の叔母のもとに身を寄せた。その後、「王玉蘭」という中国語名を付けられた水崎秀子は両親に再び会うことはなく、両親がいつ亡くなったかを知ることもなかった。
叔母の家で何年か住んだ後、17歳か18歳の時、人の紹介を通じて、王玉蘭は、国民党の営長だった宗開国と結婚した。王玉蘭はこの結婚に大変満足だったようで、当時は「第一級の家に嫁いだ」と叔母も喜んでいたと語った。
宗開国は見た目も立派で、二人とも気性が穏やかで、怒ることなどはなかった。宗開国は結婚の時には仲の良い友人を招いて宴を開き、王玉蘭に指輪も送った。
だが「奥方」だった時期は半年しか続かず、宗開国は戦争に行ってしまった。「当時は戦争に行くのに家族を伴うことはなかった。彼は私を置いて行ってしまった」。王玉蘭がその後、夫の知らせを受け取ることはなかった。