日本の安倍晋三首相は訪日前、過去について次のように触れた。「日本は19世紀に率先して西洋の技術を学び、中国の漢字を利用し西側の思想を翻訳し、多くの新語を生み出した。これは中国に逆輸入されたばかりか、ベトナムなどの東南アジア諸国にも伝わった。これは日中の第三国協力が、19世紀より始まっていたことを意味する」
これは確かに漢字発展の歴史における、節目としての意義を持つ大きな出来事だ。しかしこの期間中、日本側が一方的に中国に新語を輸出していたわけではない。中日は当時、国を強くするため西側の先進的な技術と思想を導入し、それぞれ多くの漢字の新語を翻訳・創造した。これらの漢字の新語は中日両国の言語に相互浸透しており、派生が生じている。これは中日両国の科学技術及び文化の発展に対して、重要な力を発揮している。
日本:漢字で新語を作る
中国の明朝後期と日本の江戸時代、西側の宣教師は東アジアの「西の蛮族」という伝統的な蔑視を打破し、中日に西洋の科学技術成果を紹介しようと努力した。彼らは西洋文明が初めて直面した困難、つまり漢字に対応する言葉がないことを系統的に説明しようとした。そこで徐光啓を始めとする中国の士大夫、日本の蘭学者は早期の新語翻訳運動を開始した。この時代に中国で翻訳された「幾何」「三角形」「平行四辺形」などの数学の名詞、日本で翻訳された「重力」「引力」などの物理の名詞は現在も使用されている。しかし清朝の鎖国政策、江戸幕府の蘭学規制により、早期の新語翻訳運動は18世紀末に終わりを告げられた。19世紀中頃・後半になり西洋の軍艦が訪れ、中日の新語翻訳運動がようやく真のピークを迎えた。
中国:発明、批判、受け入れ
中国の新語運動は日本よりも早かったが、中国の新語翻訳の早期の主力は外国人宣教師だった。そのため当初の新語には、「法律」「審判」「基督」「使徒」など社会や宗教の名詞が多かった。また宣教師は中国のインテリと協力し、徐光啓が200年以上前に達成できなかった事業、すなわち「幾何原本」全書の翻訳を完了し、さらに西洋最新の数学研究成果を紹介した。うち「円錐」「曲線」「微分」「積分」などの名詞は、この時代に誕生した。
第二次アヘン戦争後の洋務運動時代に、中国の学者は科学の名詞の大規模な翻訳活動をようやく自ら開始した。うち最も代表的なのは、中国人学者の徐寿の化学の名詞、特に元素名の翻訳だ。徐寿は江南製造総局に翻訳館を設立し、化学関連の各種書籍の翻訳に取り組んだ。化学という概念そのものが外来語であるため、各種元素を意訳するのは非常に困難だ。そこで徐寿は化学元素の英語の発音の最初の音節を漢字に翻訳し、その元素の漢字名とした。
洋務運動において、多くの「和製漢語」が日本の翻訳書を通じ中国に入った。張之洞、厳復、林紓らは「和製漢語」による文化の衝撃を強く批判した。しかし彼らは新語の使用に反対していたわけではない。厳復は「和製漢語」に代わる新語を作ろうと努力したが、その効果は微々たるものだった。
19世紀末の甲午戦争(日清戦争)の失敗は中国人にショックを与えた。一部の志願者は、日本の明治維新の成功経験を参考にしようとした。多くの中国人学生が1896年より日本に留学し、日本人が発明した「和製漢語」の多くが中国に流入した。これが安倍氏の話した歴史だ。中国人学者の統計によると、1896年から1949年の間に、1000語以上の「和製漢語」が現代中国語に借用された。これらの「和製漢語」に中国人が自ら翻訳し作り出した新語が加わり、現在の中国社会の日常用語の不可欠な部分になった。