外国人が見た南京大虐殺 「ローゼン報告」が日本軍の暴行を暴露

外国人が見た南京大虐殺 「ローゼン報告」が日本軍の暴行を暴露。彼はラーベに協力し南京を占領した日本軍に働きかけた。彼の「ローゼン報告」は世界に日本軍の暴行を暴露した…

タグ:南京大虐殺 ローゼン報告 歴史 

発信時間:2018-12-19 14:49:56 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

  5年目となる南京大虐殺犠牲者国家追悼日が過ぎたばかりだが、外国人が目にした南京大虐殺が再び注目されている。『ラーベ日記』により知られるジョン・ラーベの他に、多くの人には知られていない英雄がいる。彼はラーベに協力し南京を占領した日本軍に働きかけた。彼の「ローゼン報告」は世界に日本軍の暴行を暴露した。彼とは、ジョージ・ローゼン政務書記官(ドイツ大使館南京駐在)のことだ。


 南京安全区の設立に協力


 ローゼンという名のドイツ人は1945年9月11日に、在中国アメリカ大使に書簡を送り、日本軍の南京大虐殺に関する手がかりを提供した。彼は書簡の中でこう綴った。「この書簡を記すのは中国政府に、在中国ドイツ大使館・領事館が発見した、日本の中国侵略に関する大量の資料に注意してもらうためだ……(中略)……その多くが、私が1937年11月から1938年6月にかけて南京で記した報告から抜粋されている」これらのローゼンがドイツ外務省に宛てた報告(ローゼン報告)はその後、日本軍の南京大虐殺の重要な資料になった。


 ローゼン報告は日本の同盟国(日独両国は1936年11月に「防共協定」を締結)の外交官が見た、日本軍の南京における血なまぐさい虐殺を記載している。1937年11月末、中国侵略日本軍が南京に迫っていた。ドイツのオスカー・トラウトマン大使は11月25日に南京を離れ漢口に向かった。彼はそれに先立ち、ローゼン政務書記官に現地に残るチームを発足するよう依頼した。トラウトマンは国内のナチズムに迎合しようとせず、ローゼンに日本軍に協力するよう指示しなかった。これは南京大虐殺の期間中、ローゼンが残虐な日本軍と戦い、日本軍の暴行をそのまま記録する条件を整えた。


 ローゼンは当時42歳で、ドイツの政治家の家庭に生まれ育った。1921年にドイツ外務省に入省。1933年にヒトラーが政権を打ち立てると、ユダヤ人の血を引くローゼンは中国に左遷された。こうして4年後、政治的に追放されたローゼンは、日本軍の「中世的な暴行」を目撃した。日本軍が南京に迫るなか、彼はドイツの商人のラーベらと共に、中国の非戦闘員を保護する南京安全区の設立準備に入った。彼は国民政府軍事委員会の張群秘書長がドイツ大使館に提供した官邸をラーベに委ね、安全区国際委員会本部の事務所とした。


 日本軍が南京に攻め入る前、ローゼンを始めとするドイツ大使館のチームは招待を受け、南京付近の長江に浮かぶ英国の船に乗船した。12月13日に南京が陥落すると、理性を失い気が狂った日本軍は、6週間に渡る血なまぐさい大虐殺を行った。その初期、ローゼンなどは英国の船から、日本軍が中国人を虐殺するのを目の当たりにした。ローゼンは12月24日、ドイツ外務省に宛てた報告の中で、下関を通過した際に「一般人の服を着た死体が積まれていた」と記した。ローゼンは別の報告の中で、日本軍の八卦洲の中国軍人に対する大虐殺について記した。彼が英国の軍艦に避難する間、日本海軍の近藤少将が英国海軍のホルト将軍を訪ね、下流の小島・八卦洲にいる中国の3万人の軍人を「処分」すると述べた。「処分」とは抵抗する力をまったく持たない人を殺すことで、日本軍は機銃掃射のほかガソリンで焼き殺すなど、多くの特殊な殺人方法を採用した。ローゼンは南京に戻ろうとしたが日本側から拒否されたため、やむなく上海に移った。1938年1月、ローゼンらはついに南京に戻ってきた。

 

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