ナチスからの「粛清」
ローゼンらドイツの外交官は南京で日本軍の暴行に極力抗議したが、ドイツ国内の政治情勢は日本寄りに傾いていた。中国に友好的だったドイツ国防大臣のヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥が1938年1月27日に退任し、別の「親中派」であるコンスタンティン・フォン・ノイラートも2月4日に外務大臣の職を辞した。狂気じみたナチス分子のヨアヒム・フォン・ リッベントロップがドイツの外務大臣に就任し、外務省のそれまでの「親中」政策に反対した。2月21日には中国に駐留するドイツの外交官に対して、ドイツは偽満州国を認めると告げた。それから間もなく、抗戦中の中国に同情するトラウトマン大使はドイツに召還された。ラーベは帰国後にヒトラーに書簡を送り、日本人にすべての非人道的な暴力行為を停止するよう説得を呼びかけた。ところが彼はゲシュタポに逮捕され、取り調べを受けた。ゲシュタポは彼が日本軍の南京における大虐殺を証言することを禁じた。このような政治情勢であっても、ローゼンはドイツ外務省に日本軍の嘘の宣伝を伝えていた。3月4日の「ローゼン報告」の中では、「日本人はきれいなカラーの宣伝ポスターを持ってきた。優しそうな日本人が弁当を手にし、中国の子供を肩車している……(中略)……残念ながら、このようなカラーのポスターは現実と一致していない」と記録している。
1938年6月、ナチスによる外交の「粛清」がローゼンにも及んだ。ドイツと日本の軍部の関係悪化を回避するため、彼は取り調べのためドイツに召還された。ローゼンは自分がユダヤ人の血を引いており、南京で日本軍と対立したことで帰国すれば厄介なことになることを知っていたので、まず英国の首都ロンドンに滞在し、その後渡米し多くの大学で教鞭をとった。シャーフェンバーガーはそれほど幸運ではなく、日本軍の暴行を暴露したことで、日本軍の目の上の瘤になった。彼は食中毒で死亡したが、日本人に毒殺されたと推測できる。
ローゼンは戦後、西ドイツに戻った。1961年に66歳で死去。2009年に上映された中仏独合作フィルム『ラーベ日記』の中で、非戦闘民を救助するローゼンの貢献が詳細に記録されている。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2018年12月19日