日本軍は第二次大戦中に慰安婦を強制徴用し、人類文明の歴史に恥辱のページを記した。終戦から70年以上が経過するが、年老い病気に苦しむ生存者たちは、日本政府からの謝罪を待ち続けている。
8月14日は7年目の「世界慰安婦記念日」だ。ここからは彼女たちの話に耳を傾け、これを記憶しよう。
「悪夢はここから始まった」
「彼女は楽観的な心を持ち、美を愛し山歌をうたった。彼女はヤオ族だ」中国慰安婦問題研究センターの蘇智良主任にとって、広西チワン族自治区荔浦県の韋紹蘭さんは、慰安婦制度の中国の被害者の中で最も印象的な一人だ。「苦しみを経験したが、非常に達観していた」
1944年の冬、当時24歳だった韋さんは日本軍に連れ去られ、馬嶺鎮の慰安所に閉じ込められた。彼女は慰安婦を題材としたドキュメンタリー『三十二』の中で、悪夢はここから始まったと語った。慰安婦はその後、彼女の別の身分、一生恥とする身分になった。苦しみ抜いた彼女は3カ月後、脱走し家に逃げ帰ったが、妊娠が発覚した。その後、息子の羅善学さんを出産した。
こうして苦難は二人の代名詞になった。偏見の目で見られ、羅さんは現在も独身だ。
しかし韋さんはいつも輝かしい笑顔で周囲を明るくした。蘇氏によると、韋さんの「この世界は素晴らしい。どんなにひどいものを食べても生き残り、目にするべきだ」という言葉は無数の人を感動させている。これは最も素朴だが、最も力のある言葉だ。
韋さんと羅さんは2010年12月、日本を訪れ訴えを起こした。二人は東京や京都などで、「被害者証言集合」活動に出席した。しかし1995年に中国の元慰安婦による対日賠償請求が始まってから現在まで、すべてが敗訴に終わっている。
「よく殴られ、脅迫され、刃物で傷つけられた」
朝鮮半島出身の李浩善さんは、14歳の年に連れ去られた。「街で男たちが少女の腕をつかみ、車の中に連れ込んだ」と李さんは振り返る。それから彼女たちは慰安所に送られ、いわゆる慰安婦になった。
慰安婦とは日本語で、日本語の辞書には「戦地で将兵の性の相手をさせられた女性」と書かれている。これは欺瞞に満ちた説明であり、日本軍の戦地の女性に対する醜い悪行を総括したものではない。
「私たちはよく殴られ、脅迫され、刃物で傷つけられた」「多くの少女が自殺を試み、溺死するか首を吊った」李さんは、自分も自殺を考えたが、踏み切れなかったと話した。
爆殺、病死、難産死、過労死、撲殺、自殺――戦況が変化するなか、慰安所で命を落とした女性は数え切れないほどだ。終戦を待たずして3分の2位以上の人が亡くなった。
1945年に日本が降伏し、慰安所が一夜にして消滅すると、誰もが呆気にとられた。李さんは「どこに行けばよいか分からなかった。朝鮮に帰る道が分からず、また家族にとって大きな恥であるため帰りたくもなかった。私の顔には慰安婦と書かれていた。母に合わせる顔がなかった」と語った。
李さんはその後、朝鮮族の男性と結婚し、中国の延吉市で数十年沈黙を守った。2000年になり夫が亡くなると韓国に戻り、元慰安婦が共同生活を送る「ナヌムの家」に入居した。彼女はさらに弟を見つけ、自らの身分を取り戻した。
物語はここで円満に終わるはずだったが、李さんの弟がある日突然、音信不通になった。彼女が心配していたように、弟はもう彼女と連絡を取ろうとしなかった。慰安婦だった姉がいることを大きな恥としたのだ。