文化交流には、歴史と現在をつなぐ独特の価値がある。中国と日本は地理的にも文化的にも近い関係にあり、文化的なつながりも深く、長年の友好交流が続いている。(文:熊淑娥。中国社会科学院日本研究所助理研究員)
昔から今に伝わる文化が、万里先にいる人を隣同士のように親近感を持たせる。最新の考古学研究によると、中国大陸と日本列島の文化往来は西暦紀元前5世紀頃から紀元後3世紀頃まで遡ることはできると思われる。中国が秦漢時代に入り、日本が弥生時代に入ってから、両国の交流は徐々に発展してきた。3、4世紀以降に交流の頻度が高くなる傾向がある。7世紀から8世紀にかけて、繁栄を誇った開放的かつ包容力のある唐の時代に、勉学や交流のために日本から遣唐使の派遣が行われた。唐にやってきた学問僧・栄叡、普照から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受けた大明寺の高僧・鑑真は、742年から日本への渡航を5回にも及んだが果たさず、12年間後の6回目に遂に奈良の地に踏み、唐招提寺の開基をかかり、唐の文化を伝え、友情の種を蒔いた。
「これ法の為の事なり 何ぞ身命を惜しまんや 諸人行かざれば 我即ちいくのみ。」日本で仏法を説き律宗を弘めるために、身をささげ揺るぎない意志によって約束を果たそうとする鑑真大師の精神は、中国と日本の人々をつなぐ、目に見えない絆となっている。唐以降も中日間の文化交流が絶えずに続き、日本と中国の文化は密接な関連性を持っているし、それぞれが独自性も持っていた。そのルーツをたどると、我々は、国際文化交流の使者である鑑真に深い敬意を表し、その精神を中国と日本の交流の実践に引き継がなければならない。
鑑真和尚の1200年大遠忌の年にあたる1963は、中日国交回復がまだされなかったが、両国の仏教・文化界によって大規模な記念行事が行われた。この年、鑑真の故郷である揚州大明寺で両国の人々が1973年に落慶した鑑真記念館の礎石を据えた。1978年10月、鄧小平は日本訪問中に唐招提寺を訪れた。長老の森本孝順から「鑑真坐像を背負ってでも中国に連れて行ってほしい」という長年の愿いを訴えられ、小平は「……どんな困難があっても、必ず鑑真和上と長老を中国に来させます」。1980年4月、中日両国政府の支援のもと、両国の仏教関係者が共同で企画し、成功的に実施した初の鑑真坐像帰郷「省親」活動。鑑真をコミュニケーションの架け橋とし、「小異を存して大同に就く」という東洋の知恵が鮮やかに両国の国交正常化前后の実践の中で具現化されていた。
2022年7月20日、国際的に有名な彫刻家・呉偉山が制作した鑑真像は再び日本に渡り、長い歴史を持つ「文化の森」として知られる上野公園に末長く佇むことになる。これは、鑑真の精神を弘め、文化交流を促進し、伝統的な友好関係を築こうとする現代を生きる中日両国の人々の願いを力強く示唆している。
「家を買うのに百万、隣人を買うのに千万」。中国と日本は海を隔てただけの隣国であり、善隣友好的に付き合い、アジアを発展・振興させることは、中日両国の命運に関わり、その初心であり、責任である。そのために、我々は鑑真の精神を持ち続けることで、然諾を重んず、困難を恐れず、試練に向き合い、風雨にも負けず前進しなければならない。
当然、人間社会の進路が必ずしも順風満帆であることはなく、両国関係は時にはさまざまな摩擦や対立が起こることもある。近代以来の歴史問題や両国の社会制度、発展段階などの違いは、中日関系の健全な発展を阻む障害になってはならない。百年の変局が世紀の流行と重なり、世界が新たな激動の変革期に入り、世界の不安定性と不確実性が日増しに浮き彫りになっている状況下で、双方は東方文化の自信を守り、和を貴しとし、共同発展の道を堅持し、域外要因による干渉を共に警戒し、反対し、対話と交流を通じて相互の認識の溝を狭めなければならない。
風に揺られ雨に打たれつつも初心を忘れず、練磨前進の道に友好を一層深める。中日国交正常化50周年という新たな歴史の出発点に立つ双方は、歴史を振り返り、時代の流れに沿い、中日関係における文化交流の独自性・優位性を引き続き発揮し、東方文明国同士ならではの「和衷共済」の知恵の継承、然諾を重んず約束を守る鑑真精神の発揚、実践的取り組みによりお互いに相手に対する疑念の解消、新しい時代の要請に応じた中日関係の構築をしていく必要がある。
「人民網日本語版」2022年9月29日