ホーム>>社会>>社会ニュース
改革開放30年来、青年の就職観に変化
発信時間: 2008-10-14 | チャイナネット

 

■開放へ――「農民労働者ブーム」と都市インテリ青年の双方向の選択・80年中期-90年中期

 

農村青年の就職の考え方は次第に開放的になり、 「家庭共同生産請負責任制」がもたらした大量の農村余剰労働力の拡散と同時に、都市部の労働力、とくに企業や建築業界の農村労働力の大量需要により、戸籍制度や穀物・油供給制度、就職管理制度もやや緩和された。その後、政府は再び一連の政策と措置を策定し、農村労働力の地域的交流、都市部と・農村部の交流、貧困地区の労働力輸出が許可、奨励されるようになる。その結果、大量の農村労働力の地域を超えた流動「農民労働者ブーム」が沸き起こり、農村青年の就職観も次第に開放されていった。

都市部での就職の変化は主に、インテリ青年の間に見られる。大学卒業生の就職制度は85年から段階別、層別に徐々に改革が行われるようになった。89年に提起された改革目標は、国の就職方針・政策の指導を受けながら、卒業生の職業の自主的選択と、雇用側の選択・採用という「双方向の選択」制度を徐々に実施することだった。この改革は競争メカニズムを大学に導入し、卒業生の就職を徐々に市場化させるというものである。青年の就職で最大の変化は、「経済的地位」が職業選択時に最も優先的に考慮する要因となり、長年にわたり支配してきた「社会的地位」と「政治的地位」を超えたことだ。第一の選択基準となった「経済的地位」については、以下の点に具体的に表れている。

第1は、経済特区や沿海部の外国との合弁あるいは「三資」(合弁・提携・現地法人)企業での仕事を希望するようになったことだ。北京の千人の学生を対象にした調査で、職業を選択する場合、卒業後に経済特区や沿海部の開放地区での仕事を希望すると答えたのは「40%」近くを占め、合弁企業を第一に考えていることが分かった。

第2は、高学位は求めず、高収入のみを求めるようになったことだ。80年代後期から大学院受験生は急減し、87-89年に中途退学した院生は全国で約700人にのぼった。この時期、理工系に興味を示す大学生は5割以下まで減少、「知識の大逃亡」とも呼ばれた。「貧しさは、まるで教授並み、愚かさは、まるで博士並み」といったはやし言葉は、当時の奇妙だが真の社会現象を反映している。

第3は、第2の職業や職業の流動性が広がったことだ。80年代中・後期にかけて青年たちは転職するようになり、職業の流動が表面化した。多くの青年が「最初の仕事で求めるのは安定、第2の仕事で求めるのは豊かになること」を唱えたことで、卒業したばかりの大学生の間で「まずは安定」、そして「より良い仕事を見つける」と考える傾向が強まり、人材の流動は次第に活発になっていった。「国営-集団-合弁-現地法人」と、国営から三段跳びの職業選択も出現。こうしたことから90年代には、「国有企業」は労働者が急減し、「集団企業」は従業員が相次いで流出し、「三資」は人材が豊富となった。とくに93-94年になると、大学生が沿海部の開放地区に集中する現象が際立った。

第4は、経済的収入が職業選択で第1の基準になったことだ。当時、青年が職業選択にあたり考慮した第1の要素は収入と福利厚生である。最も好まれた業種は、金融保険業、工業関連企業、国家機関、サービス行、科学研究機関の順。

 

     1   2   3   4    


  関連記事

· 改革開放30年:草原の生活にも大きな変化

· 人民日報社説「改革開放の主導権を掌握し、経済・社会の新たな発展を推進」

· 改革開放30周年:人々の生活を変えた公共放送

· 改革開放30周年:ウェブ利用者も肯定

· 宝鋼の成長ーー製鉄大国への夢 中国改革開放30周年記念

  同コラムの最新記事

· 国家公務員採用情報、公開初日にアクセスオーバー

· 「渡り鳥老人」増加、南方での越冬がブーム 長春

· 豪雨に見舞われた海南省 水があふれた市内の道路

· 最高人民法院が下級裁判所の巡察を開始 腐敗対策を強化

· 改革開放30周年:繊維工場を興した楊さん 海外旅行も実現