各界がこぞって参加
政府のほかに、中国各地の各界の対応もすばやかった。北京では、蒋夢麟北京大学学長が、日本の東京帝国大学及び各学校あてに、「大惨事の知らせに深い悲しみを覚えています。同じ教育界の一員として心からお見舞い申し上げます」と電報を送った。北京銀行の労働組合は、10万元を調達し米・小麦3万石を買い入れ、すぐさま日本に届けている。北京中国画学研究会の会員たちは、連絡を取り合い準備を進め、中央公園(現在の中山公園)で、書画のチャリティー展を開催した。当時の有名な大家の書画も多数出品され、初日の28日だけで数百点を売り上げた。また義援金を集めるために、園遊会や演芸会、展覧会も催された。
最も支援ムードが高まったのは上海である。9月2日、上海で20余りの慈善団体は「しゃんしゃん会議」で日本救済を決めると、情況を聞きに上海の日本領事館や在住日本人を訪ねた。4日には、上海総商会が、「中国日本災害救済義捐会」を立ち上げ、朱葆三が会長、盛竹書と王一亭が副会長に推薦され、王一亭が事務方を務めることになった。8日の午前中には、招商局グループの汽船「新銘号」が上海を出航、マストには青地に白十字の中国日本災害救済義捐会旗が掲げられた。12日に神戸港に入港するが、この船で、関東大震災後初めて外国から救援物資が運ばれたという。また同船には、神戸に向かう中国赤十字社の医療支援チーム24人も乗りこんでいた。これが、1905年に設立された中国赤十字社にとって、最初の医療救援隊の海外派遣となる。
芸能界の行動もすばらしかった。9月6日、梅蘭芳は全国芸能界国際義捐大会を呼びかけ、「義援金募集チャリティー公演」を発表する。紆余曲折の末、当代の花形役者である余叔岩や楊小楼など揃って参加し、出し物は「十八番のオンパレード」となった。
日本は「国民答礼団」を派遣