文=師永剛
福沢諭吉
中国、まるで巨大な獲物のごとく日本人の標的となった。
吉田松陰、福沢諭吉のような時代を画した人物がこうした考え方を持っていても、決して不思議ではない。この島国には早くからこうしたいと思う人間がいた。日本の武神と見られていた豊臣秀吉だ。1583年、日本を統一すると、秀吉の頭には「天皇は北京に居し、秀吉は寧波府に留まり、天竺を占領す」という考えが浮かんだ。
刀や矛といった兵器の時代、秀吉の野心は明らかに机上の空論にすぎず、朝鮮に3度出兵したものの、大敗を帰して国に戻る結果となった。その一生において、鴨緑江すら渡ることはなかった。ただ、秀吉の最も不遜な夢は、連綿と百年も続き、後の世の日本人が実現を欲する長年の大いなる夢となった。
◆中国侵略の夢は連綿と数百年
200年余りが過ぎても、このような大いなる日本の夢は途絶えることなく日本人の頭の中にあり続けた。佐藤信渊、医学を学び、幕僚となり、私塾の教師だった地理の愛好家は49歳の時に日本を漫遊し、その過程で佐藤は日本の地理の限界性に不満を抱いた。
この政治家でなければ、軍事家でもなく、博物学者に過ぎない普通の平民はなんと1832年に「宇内混同密策」を記し、日本の将来の活路を論じた。もちろん、佐藤の考え方はまたその先達らとつながっている。
「島国日本の異邦の開拓は必ずや、先ず中国の併呑から始めねばならない。……故にこの書は先ず中国を略取する方略を詳述している。中国が日本の版図に入るのみならず、その他の西域、シャム、インド諸国は、必ずや奴隷に属する」
いぶかしげに思わざるを得ないのは、佐藤の理由だ。「当今の万国において、土地が最も広大であり、物産が最も豊富であり、兵力が最も強大であるのは支那よりなく、皇国が支那を征伐した場合、仮に組織が当を得ていれば、5、6年の間のことに過ぎず、その国土は必ずや瓦解するであろうし、故に皇国が他国を攻撃するには必ずや、先ず支那併呑を始めとするなり」
佐藤の中国侵略の夢は、すでに考慮の段階にあるではなく、かなり詳細な攻略の策でもある。5年から7年で中国を攻撃、併呑する夢を佐藤は目にしていないが、その後の日本の攻撃路線は一貫して佐藤の青写真に基づいている。
これは個人の幻想ではなく、一つの民族の思想家、行動派、上は天皇から下は平民まで、いずれも中国を必ず奪取する地と見なし、その企ては積算して百年となる。明治の多くの英雄はこのような薫陶のなかで建国という偉大なる事業に着手した。山県有朋、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通、西郷隆盛、井上馨だれ一人としてこの衣鉢の継承者だ。
「『中国』、この題目が、日本人も、解剖台のうえで何千、何百回、解剖されたのか、試験管に詰めて何千、何百回、化学実験をしたのかは知らない。われわれ中国人はむしろひたすら排斥し、反対し、もう検討しようとはせず、ほぼ連日、日本字を見たいとは思わず、日本語を聞きたいとも思わなかった」。後に、戴季陶はその著書「日本論」で多少感慨深げにこう語っている。
◆日本陸軍は山県有朋時代に