1890年、山県の同窓生、同じ松蔭塾門下の伊藤博文は内閣総理を退任する際、力の余すところなく山県を後任に推薦。山県は対中作戦にかかわるすべての準備をすでに終え、大権を手にしていたが、ただ革命の力に欠けていた。だが、李鴻章がこの10年の間に立ち上げた北洋水師は依然、巨大な海上の圧力となっていた。
山県は重心を海軍に移し、この時には天皇の気持ちをも動かした。この年の3月、天皇は国庫から30万元を拠出し、海上防衛の補助費とするよう命じた。全国の華族や富豪も競うように寄付し、すべての士官も寄付し、毎月の寄付金は必要経費の15%に達した。9月末までに寄付金は103万8000元上り、これらの資金は海軍の軍備拡充に充てられた。1890-1893年の4年間に軍費が財政予算に占める平均割合は29.4%、1893年は32%となった。
◆清朝廷に何らの準備もない
慈禧太后
1894年がようやく訪れ、カウントダウンは終わった。朝鮮の内乱は、攻め込む準備をして中国と雌雄を決するのを待ち望む日本に極めて都合のよい海戦理由を与えた。日本の間諜が提供した情報は、慈禧太后は自身の60歳の長寿を祝っているところであり、清の朝廷は何ら応戦の準備はしていない、というものだった。この万寿大典のために慈禧太后は海軍の1400万両白銀を流用。そのため北洋海軍は装備更新のための資金を失った。
では、まだ何を待つというのか。日本の陸軍と海軍は即刻、出発した。
(師永剛著の『首敗(初めての失敗)』より 鳳凰出版社)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年6月20日